芸術に関する雑文(1)

だいぶ前になるが、Twitterでとあるアカウントが投稿した、岩波文庫で一杯の本棚の写真が「つまらない本棚だ」と皆に酷評されていた。岩波文庫は数ある日本の文庫レーベルの中でもとりわけ歴史が長く、また収録されている作品も文学的評価の定まった作品ばかりである。最近パンデミックの最中にアルベール・カミュの『ペスト』が新訳で収録されたことが話題になったが、特に20世紀以降に書かれた作品はかなり文学的評価が確立された作品であっても収録されていないものもある。ちなみに私も岩波文庫赤帯が詰まった本棚を持っているので、例の本棚が不評であるのを見て正直なところ心穏やかではなかったが、一方でそれをつまらないと言う人たちの言わんとしていることもわかる。専門書の類であれば、それぞれの分野で評価の定まった必読書を正しい順で読んでいくことに異論のある人はいないだろうが、それが文学となると少し違いそうだ。どのような小説を好んで読むか、もっと広く言えばどのようなコンテンツを好んで消費するかはその人の個性をあらわすものであって、権威ある必読書一覧の踏破が目的となっているような人は没個性で退屈な人間だと思われても無理のないことかもしれない。あるいは、とうの昔に流行りの過ぎた岩波的教養主義がいまだ人の関心を引くと思っている滑稽な時代錯誤の方が鼻につくかもしれない。そんな人を追い詰めるとすれば、一方から「自分でコンテンツを選び取ることのできない没個性性」をあげつらい、他方から「時代錯誤的な教養主義が個性足り得ると思い込んでいることの滑稽さ」を指摘すればよいだろう。しかし、そうは言ってもそれでは個性的で現代的な・同時代的なコンテンツ選びとは何かと問われた時に、せいぜい相対主義的・多元主義的価値観というセーフティーネットのうえでしかこねられない臆病な理屈しか出てこないのだとすれば、ナイーヴな権威主義者の方をむしろ擁護したい気持ちにもなる。私自身に大した教養もないのに教養復権だなどと言うつもりはさらさらないのだが、千の「否」の後にその可能性を問うたとして、まだ言えることがなんらかあるのではないかという気もしている。私の本棚に岩波文庫が詰まっているのかを思い返せば、それは紛れもなく時代錯誤的な教養への憧れがきっかけで、なんなら今でもある程度は後世に残されるべきと認定されたものをまずは理解せねばという態度で文学や芸術に接しているように思う。中学生の頃はともかくとして、さすがに十代も後半になれば教養主義的な態度が個性になって欲しいと願うようなナイーヴさは薄れてきてはいたものの、そうは言っても大学生くらいまではそれによって何か自分の中に残るものはあったのだろうかと考えることはあった。ケチ臭い疑問な気もするが、要するに流行りの漫画や流行りのアーティストを追いかけていた場合と比べて、何か余分に手に入れたことになったのだろうかということだ。果たして一番面白くて美しいものを鑑賞し、人より多く感動したことになるのだろうか。時代や場所を問わない普遍的な真理を学ぶことができたことになるのだろうか。あるいは人格が陶冶されたことになるのだろうか。教養への憧れからいつしか方法論的権威主義も板についてしまったのはいいものの、中々胸を張って人に説明できるような成果は何も無かったような気もする。「教養を手に入れたのだ、教養はそれ自体尊いのだ」という強弁で満足できてしまうとすれば、方法論的権威主義者がただの権威主義者に堕しただけに思われる。ニュートンは「巨人の肩のうえに乗る」と言ったが、自然科学であれば既に高く積み上がった過去の成果のうえに立って遠くを眺めることができる。一方文学や芸術の巨匠達は何を見せてくれるのかがいまひとつわからない。わからないにもかかわらず、長い間触れていると飽きるどころか文学や芸術への渇望は、まるで酔うと仕舞には酒が酒を飲むようになるように、どんどん強くなっていく。教養人を気取りたいとか、個性的でありたいとか、そういった不純物が濾過され、蒸留されていき、この渇望はより純粋になっていくようである。それはなぜなのか、この疑問の根っこの部分に文学や芸術の本質を捕まえるための手がかりが埋まっているのではないかと思っている。
(以下に続く)
rastignac.hatenablog.com

昭和の時代の流行りの本

Twitterにも書いたが、近ごろ酒を飲むと翌日の気分の落ち込みが酷い。二十代のころであっても、身体的な二日酔いと後悔や自己嫌悪のような気分の悪さはセットのようなものだったが、最近はちょっと自分でも心配になるくらいメンタルにくる。煙草にしろアルコールにしろ、身体が嗜好品に耐えられなくなるのは寂しいことだ。むしろ人生これからの方が酔うことなしに生きていくのが難しそうであるのに。

最近『限りなく透明に近いブルー』を読んでみたのは、それが理由なわけではない。先日のポール・オースターの『ガラスの街』に関する記事にも書いたが、文学と一言で言っても人によって頭でイメージするものが異なる。私は比較的食わず嫌いせずに色々読むタイプではあるものの、やはり高校生~大学生時代によく読んでいたものが(私にとって)一番文学の顔をしている。ドストエフスキーカミュのような作家を夢中で読んでいたのが最初期で、フローベールトルストイを読んでその力量に慄いたのがその次くらいだっただろうか。その他にも、ジェーン・オースティンやブロンテ姉妹が面白いとか、はたまたラシーヌの戯曲がすごいとか、ふらふらとつまみ食いばかりしていたが、やはり「古典」と言われる作品を読んでいくのが基本的な姿勢だった。だから、村上龍の本も初めて読んだ。

芥川賞の作品を追うということはしていなくて、数えるほどしか読んだことがない。柴田翔の『されどわれらが日々』については以下でも記事を書いているが、近ごろまで本当にそのくらいで『蹴りたい背中』を高校の教室で回し読みしたのは、あまり多くない清涼感のある(?)思い出のうちの一つだ。
rastignac.hatenablog.com

最近の自分の関心として、自分がどういった条件付けでこの世に放り出されたのかということを考えることが増えた。恐らく人生でどうにもならないこと、諦めなければいけないことが増えてきたからだと思う。別に自分が「華麗なる一族」の出自でないことを言い訳にして現状に文句を言おうという魂胆ではないが、両親や祖父母が生きた時代はどう語られていて、そして両親や祖父母はどれだけ「語られるに値する」ものを見ることができたのか、できなかったのか、それを知りたくなった。そもそも、「近代文学は終わった」(柄谷行人の本は、いつまでも積んであるままである)のであれば、世相を理解するために流行った文学を読もうというその姿勢自体にセンスが無いということなのだと思うが、歪みはあったとしても、まだ小説は「時代を写す鏡」であるとも思うので。

「流行った純文学」というジャンルの作品の中で、その時代で語られるに値する何かが本当に語られているのかはわからないが、そういうわけでこの頃やたらと『太陽の季節』とか『なんとなく、クリスタル』とか『限りなく透明に近いブルー』とかを読んでみている。それぞれにそれぞれの面白さはあるが、こういった作品を前にして頭を抱えた当時の選考委員達の方に共感してしまう自分もいる。

『ガラスの街』

一言に小説と言っても、少しずつ人によってイメージするものが異なると思う。多くの作品を読んできた本好き同士であっても、それまでの読書経験で形作られたそれぞれの異なる小説像があって、よくよく話してみると一方にとって当たり前なことが他方にとって新鮮であったりすることがある。時代と地域・言語の2軸で、自分がまだ読んでいない空白地帯を埋めていくように読書計画を立てて読書を進めていると、それまで自分が知らなかったタイプの小説にちょくちょく出会うことができる。そして、ひとたびその良さを認識するための「認識の枠組み」みたいなものができると、今度はその枠組みを使って過去に読んだ作品を思い返し、新しい光を当ててみることができる。

この間読んだポール・オースターの『ガラスの街』も私にとっては新しい経験で、今後の読書における「小説の読み方・楽しみ方」の道具を一つ増やしてくれた本になったと思う。この本の冒頭は「ミステリ小説作家が間違い電話に端を発して奇妙な事件に巻き込まれていく」というもので、ありがちなミステリ小説の門構えだが、中身はだいぶ異なっており、(もちろんある程度謎解き的な展開はあるものの)出来事が次々と起きて事件が発展していくというわけではなく、最終的に謎の解決にも至らない。物語の本線は最後まであくまでも細い芯として存在し、むしろその周りに意匠を凝らしたメタフィクションが幾重にも仕込まれており「物語に関する物語」が至るところで語られるという点がこの小説の面白いところだ。しかもその「語り」の中には信用できなかったり、明確でないものが混じっており、「確実に正しい話」を取り出すことが困難になっていることから、フィクションの中で宙づりにされたような感覚に陥る。手が込んだことに、作中人物が(メタフィクションが含まれることで有名な古典的作品である)セルバンテスの『ドン・キホーテ』に関する試論を展開しており、それがこの作品自体のある種の解題として機能しており、作品のメタフィクショナルな構造に対して言及がなされているなど、非常に芸が細かい。そして何よりも、この短い小説の中でこれだけのことを、読者を突き放すような難解さ無しに実現しているところに作者の非凡な力量が発揮されている。

あまりに構造のことばかり書いたため、中身は無い本なのかと思われるかもしれないが、そういうわけではなく、妻子を亡くしこれといった人生の目的もなくニューヨークで日々を送る作家の孤独や、ミステリ小説的な展開の妙など、いわゆる「中身」についても語るべきことはあるが、私個人的な経験として、小説としての形式が崩れない程度に最後まで物語の芯を残しつつ、メタフィクションの展開によって小説にボリュームが出す、ということがここまで巧みに実現し得るものなのかという感嘆がより大きかった。これまでポストモダンに分類されるような技巧的な小説はあまり読んでこなかったのだが、せっかくなので食わず嫌いはやめて色々と手を出してみようかと思っている。

ディストピア

代表的なディストピア小説と言われている、ジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年刊行)とオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932年刊行)を立て続けに読んだ。オーウェルもハクスリーもイギリス人である。『1984年』の方は世界観の設定がかなり細かく作りこまれている知的労作という感じで、第三次世界大戦後にできた3つの一党独裁国家のうちの一つを舞台として、政府各省庁の機能や国民の生活がどのように監視・支配されているかが細かく描かれている。スターリン体制下のソ連や欧州のファシズムなどを念頭においた寓話はおそらく当時はいくらでもあったのだと思うが、オーウェルは寓話を緻密に構成する想像力に加え、例えば作中のウィンストンとジュリアの束の間の恋愛など、人間を描き物語を語るという作家としての力量が抜きんでているため、単なる政治パンフレットを超える不朽の名作として今も読まれているのだと思う。
すばらしい新世界』の方は『1984年』と比較して世界の設定をよりSF要素 (架空の科学技術) に負っている作品だ。『1984年』は直接的な全体主義国家批判である(すなわち現実にある国家・制度にかなり多くを負っている)一方で、『すばらしい新世界』の方は、高度に発達した科学技術に支えられた究極の管理国家が描かれている。具体的に言うと、人口の再生産は階級毎に完全に管理され、各々の階級に属する人間は不満を抱かないような教育(洗脳)を施されており、仮に生きていく上で困難が生じた場合も高度に発達した娯楽(作品内で「感覚映画 (feelie)」と呼ばれる五感で楽しむ映画などは現代のVR・ARそのものである)や、副作用のない麻薬によって、苦痛を取り除かれる、といった世界である。物理的な制約をSF要素によって克服しているため、より抽象的な問い、すなわち「完全な技術と管理体制によって誰も一切の苦痛を感じることなく、快楽に浸されたまま自己再生し続ける人間社会は果たして是であるか?」という問いをむき出しに突き付けている。この問いをぶつける側の人間(作中の「野人」)と、「これが是である」と言う側の人間(作中の世界統制官ムスタファ・モンド)のやりとりは哲学問答とすら言え、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を連想させる。
寓話というのは設定(世界観)の理解・了解、問われている抽象的な問いの把握、そして抽象的な問いと展開される架空の物語の架橋、というステップを頭の中で踏む必要があるので体力を使う読書になるが、この二作のように巧みに書かれた寓話は、その労力に十分見合った楽しみを与えてくれる。

様々な読書

年が明けてから少し時間があったので読書が捗った。今年はなるべく早めに『テヘランでロリータを読む』を読みたいと思っていたのだが、章立てを見てみると第一章が「ロリータ」、第二章が「ギャツビー」、第三章が「ジェイムズ」、第四章が「オースティン」とある。各章のタイトルを作家名で統一するなら第一章は「ナボコフ」に、第二章は「フィッツジェラルド」にした方が良かったのではと思うが、まぁそれは置いておくとして、こういった「本について語る」系の本はその中で言及されている本について知っていないと今一つ楽しめないので、なるべく事前に作品を履修しておくようにしている(そんなことを言っているとアウエルバッハの『ミメーシス』などは一生読めないことになるので、あの本は気になる章だけつまみ食いしている。)。既に私は『ロリータ』も『グレイト・ギャツビー』も読んでいたし、ジェーン・オースティンも『高慢と偏見』と『マンスフィールドパーク』は読んでいたのだが、問題はヘンリー・ジェイムズで、彼の本は一冊も読んだことが無かった。パラパラと「ジェイムズ」の章をめくってみるとどうやら『デイジー・ミラー』を読んでおけばとりあえずなんとかなりそうだったので、まずは新潮文庫の『デイジー・ミラー』に取り掛かることにした。
ヘンリー・ジェイムズ(1843 - 1916)はアメリカ生まれの作家だが、裕福な生まれだった彼は少年時代から何度もヨーロッパ旅行を経験しており、また30代の頃にロンドンに移住しているので、生涯のうち欧州で過ごした時間の方が長かったようである。『デイジー・ミラー』は19世紀末における「奔放なアメリカ娘」が「因習にとらわれた保守的な欧州人」から白眼視されるのを「欧州で過ごしている米国人」であるウィンターボーンが観察しているという構図だ。正直なところ、対立図式が単純で小説が短いので、骨組みの理屈しか残らないスルっとした読後感になりがちな作品だと思うが、これは私が男性であるからこそケチらず余分に想像力を発揮すべきだったという話な気もする。そうは言っても、この『デイジー・ミラー』が重厚な作品ではないことは確かなので、複数作品しっかり読んでジェイムズの描きたかった世界を立体視すべく『ワシントン・スクエア』と『ロデリック・ハドソン』を買った。そういえばちなみにフィッツジェラルドの『グレイト・ギャツビー』も実は私はあまり隅々までしっかり覚えているというわけでもなくて、近々再読しようと思っているのだが、同じ訳で読むのもつまらないので村上春樹訳を買ってしまった。そう、これが積読が増えていくメカニズム。
そして一応こうしてヘンリージェイムズも読んだので『テヘランでロリータを読む』に取り掛かった。著者のアーザル・ナフィーシーは親戚に学者や政治家がたくさんいるイランの名門一家の出で、父がテヘラン市長であり母は国会議員だった。本人も13歳からアメリカに留学し大学教育を受けており、典型的な「西洋化したエリート」である。米国にいたときには左派の活動家に対する並々ならぬ共感があったようだ(デモには頻繁に参加していたと本書にも記載がある)。そんな彼女は1979年のイラン革命と同時に祖国に戻ったわけだが、そこで彼女は「米国資本と癒着したパフレヴィー朝の打倒」という左派的な理念のあった革命が、やがてホメイニが主導する抑圧的なイスラム革命一色へと変わっていくのを目の当たりにする。その後、宗教勢力に牛耳られた革命政権による監視、不当な逮捕、恣意的な裁判、そして投獄や処刑といった全体主義的な抑圧と、革命後に勃発したイラン・イラク戦争の混乱に飲み込まれていく。イランに帰国してからしばらくはテヘラン大学で文学を教えていたが、女性のヴェールの着用の強制など、女性差別的な規範にもとづく規則の押し付けを拒絶し、大学を去る。この本は彼女が大学での職を辞した後に、彼女の生徒の中で特に優秀で文学への情熱をもった学生達相手に自宅でおこなった秘密の読書会を軸とした回想録だ。なので、この本では『ロリータ』や『高慢と偏見』などに関して厳密な読みが展開されるというよりも、人間の尊厳がグシャグシャに踏み躙られていた頭脳明晰なイラン人女性達にとって、小説を読むということはどういうことなのか、物語にどういう力があるのかが語られている。具体的には『ロリータ』のハンバート・ハンバートの中に、生身の人間に観念的理想を押し付けることのグロテスクさを見たり、『デイジー・ミラー』の中に社会に反逆すること、支配的な価値観に異を唱えることの勇気を見出すわけだが、著者も書いているとおり、抑圧された状況であればあるほど想像力を働かせ登場人物に共感するということが生きる力につながるのだ。このような文学の読み方はある意味単純というか、文学の価値を肯定しようと試みるときにもっと違った光の当て方はいくらでもできるのではあるが、過酷な状況がそこにあり、その中で文学を読むことによって実際に救われた心があったことが、誰もが知る英米文学の名作とともに語られているということで、それ自体十分読まれるに値する面白い書物だったと思う。

雑記 (2021年下半期に読んだ本)

少し気が早いが読みかけの本はいずれも年をまたぎそうなので、少し早いが恒例の読書記録の2021年下半期版を投稿する。今年の読書で最も自分にとって重要だったのは何よりプルーストの『失われた時を求めて』全14巻なのだが、予復習がてらその前後に関連する本も数冊読んでいる。『失われた時を求めて』の全巻読了前に読んだのは以下の新書2冊で、いずれもこの小説の翻訳も手掛けている一流のプルースト研究者が書いた本なので内容は非常に良い。テーマがコンパクトに解説されているので、小説そのものを読むつもりはないがどういった内容かくらいは知りたい、というような人にはおすすめできる。

また、関連本のうち本作読了後に読んだのは以下の2冊。

これら2冊は面白かったのだが、どちらかと言うとあの小説を全巻を読破した人間が満足感(とちょっとした優越感)に浸りながら、確かにこういう部分があったな、なるほどこういう読み方もあるね、といった具合に楽しむ本だと思う。個人的には『プルーストと過ごす夏』は文学者や哲学者、美術史家などの7人が各々の専門やプルーストの読書経験を踏まえたエッセイを書いており面白かった。またちょうど文芸雑誌の文學界が2021年10月号で「プルーストを読む日々」という特集を組んでおり、14人の書き手が岩波文庫版の本作全14巻について一人一巻ずつ担当して書いたエッセイが掲載されていたのでそれもざっと目を通した。実はまだ他にも2, 3冊関連本は積んだまま残っているのだが、これは来年以降気が向いたら読もうと思う。

小説以外の読書については、今年は芸術史や美学に関するものが多かった。芸術について個人的な思い出や考えたことの整理は近々文章にまとめようと思っている。入門的な芸術史の本として読んだのは以下の4冊。『近代絵画史』の上巻は上半期に読了した本の中に入っている。岡田暁生の本はいずれも面白くすっかりファンになったので他にも数冊買い込んでしまった。最後の『現代美術史』は丁寧な入門書なのだがいかんせん現代美術は独特なので後半部分は流してしまった。

美学については上半期に小田部先生の『美学』や『西洋美学史』を読みながら都度カントの『判断力批判』やアリストテレスの『詩学』を拾い読みしながら考え事をしていた。下半期は美学についてはあいかわらずカントをたまに気が向いたときに読み返したり、ヒュームのエッセイなどを読みながら、それに加えて以下の本を読んだ。

個人的には第八章「あなたは現代派?それとも伝統派?」の議論に興味があって、勢いでダントーグリーンバーグの本を買ってしまったもののそこまで手が回らず、積読化。一方、階級と趣味判断の関係について論じており、カントの『判断力批判』の批判でもあるブルデューの『ディスタンクシオン』は読んだ。

正直なところ、社会学のプラクティスにあまり興味がないのと文章がやたら読みづらいのとで、主にいわゆる趣味判断に関する議論が整理・要約されている最初の「趣味判断の社会的批判」と、カントの『判断力批判』批判が展開されている最後の付録「追記「純粋批評の「通俗的」批判のために」を気合いを入れて読んで、社会学的な理論構築的な部分やアンケート調査などによる実証的な検証の部分は流して読んでしまった。この本は面白いものの、思うところは色々とあるのでそれはまた別途文章にしたい。ここで紹介されているデリダ判断力批判の読解にはちょっと興味が湧いたが、たぶん沼なので手は出さない。

以上と関連するところで、美学や趣味論だけでなく現代のコンテンツ論にも関心が湧いてきたので東浩紀の以下の本2冊と、先行研究的位置づけの本を1冊読んだ。あとは、『ディスタンクシオン』はフランスにおける階級の話なので、では戦後日本では教養や文化資本についてどういった議論の整理が可能なのか、的な関心から『教養主義の没落』を読んだ。

東浩紀の本を初めて読んだけれど、議論の展開が上手だし手際が良いなと思った。そもそも取り上げられているコンテンツについて私に知識や消費体験の蓄積がかなり乏しいので詳しければもっと楽しめただろうとは思う。理屈を追う上で必ずしも必要ではないが。

そして、最近能をちゃんと観ようと思い立ったので色々と本を買って勉強をしようと思っている。大学生の頃何度か行って好きだったのだが、ずいぶんとご無沙汰している。年末に予定があるし、来年は複数回行きたい。

著者の松村栄子は1991年に芥川賞をとっている作家なだけあって文章がとても上手で、能への愛情が伝わってくる。

冊数を数えても意味はないのだが、2021年は合計41冊。年間100冊近く本を買ってしまうので、部屋の積読は増える一方である。

『失われた時を求めて』

失われた時を求めて』は大学生のころに一度挫折している。それも第一篇「スワンの家の方へ」の第一部「コンブレー」を読み終えたところで早々に頓挫した。昨年岩波文庫から吉川先生の新訳が出てフェルメールの「デルフトの眺望」をあしらった美しい化粧箱入りの全14巻を購入したことをきっかけに、10年ぶりにあらためて再度アタックを試みたところ案外読み進めるのが苦ではなく今年の頭からコツコツ読み進めて今日漸く読み終わった。10年越しのリベンジが意外とスムーズだった理由はいくつかあると思っている。
一つは読書時間の使い方に対する意識の変化で、学生当時はこの長い長い小説を何カ月もかけて読むのは時間が勿体ないと思ってしまった。読まなければいけないと思っていた未読の小説が山ほどある中で、数カ月分の可処分読書時間を『失われた時を求めて』だけに使うことに抵抗があった。学生の間に名作をなるべくたくさん読み切らねばという気負いというか焦りみたいなものがあったため、『失われた時を求めて』は当然読むべき名作のリストには入っていたものの、もっと手早く読める他の作品で数をこなしたいと思ってしまっていた。大学院を卒業して10年経った今はいわゆる必読書のような小説は(まだまだ未読のものはあるが)それなりの作品数を既に読めているし、また案外働き始めてからも自分が諦めなければ読書は楽しめることを知っているのでそこまでの焦りはない。なのでじっくり腰を据えて一年間かけて読み進めることに抵抗はなかった。
二つ目はこの作品が扱っているコンテンツとの相性。この小説が扱っているテーマは極めて多岐に渡っているが、やはり芸術に対する執着心のようなものがあると大いに楽しめる。もっとも、若いころに芸術への関心が薄かったかというとそうではないが、芸術が生きるために必要だと衒いなく自然に思えるくらいに芸術に触れ考えを巡らすには私にはもう少し時間が必要だった。絵画に引き込まれた経験、折に触れ頭の中で流れる音楽、建築物に息を呑んだ瞬間、作家への敬愛、そのような記憶のストックがある程度の分量ないと、プルーストが同じようにそれらを取り出して文章にしてみせることへの関心を維持できない。
三つ目はより広く人生経験的な話で、恥ずかしいような自分の気持ちや過去の行動も含めて丹念に復元していくことの価値は、おそらく若すぎると理解できない。自分が抱いた感情、とった行動、考えたことが自分の確固たる所有物でなく、時間の経過によって失われ、変容し、手から零れ落ちていくものだという実感、取り返しのつかなさへの気づきがあって初めて、プルーストが生涯をかけておこなった彼の記憶の復元に価値を見出すことができる。プルーストのような、言ってしまえば金持ちのブルジョアで病弱で引っ込み思案なマザコンに感情移入するような読み方はできない。そんな彼のであっても幼少期から彼が五感と思考で経験したことの本質を見事に復元したとすれば羨ましいことであるし、彼が復元した陶片の中に、自らが経験したことと似た紋様を見出すことができる。20代の人にとっては、マザコンブルジョワなどよりも、材木屋の倅のボナパルティストの方が感情移入しやすいだろう。
語り手の記憶とそこから引き出される想念とが数珠つなぎになって延々と続いていくようなこの小説を読んでいると、自分の記憶にもすっと手を触れられたような心持がすることがある。父や母やに抱いていた感情、まだ形にならない異性への恋、芸術作品に触れたときの戸惑いなど。世紀末のフランスのブルジョワの回想であるのに、どうして自分でも忘れていた心の中を探られるような気持になるのか。プルーストに偉大な感情はないが、あまりに詳細かつ膨大にそれが続くために、時と場所を超えた読者にもどこか懐かしい気持ちを起こさせる。そんな経験をできる作品も中々他に無いため、文学を愛する人間としては読んで良かったと思う。