様々な読書

年が明けてから少し時間があったので読書が捗った。今年はなるべく早めに『テヘランでロリータを読む』を読みたいと思っていたのだが、章立てを見てみると第一章が「ロリータ」、第二章が「ギャツビー」、第三章が「ジェイムズ」、第四章が「オースティン」とある。各章のタイトルを作家名で統一するなら第一章は「ナボコフ」に、第二章は「フィッツジェラルド」にした方が良かったのではと思うが、まぁそれは置いておくとして、こういった「本について語る」系の本はその中で言及されている本について知っていないと今一つ楽しめないので、なるべく事前に作品を履修しておくようにしている(そんなことを言っているとアウエルバッハの『ミメーシス』などは一生読めないことになるので、あの本は気になる章だけつまみ食いしている。)。既に私は『ロリータ』も『グレイト・ギャツビー』も読んでいたし、ジェーン・オースティンも『高慢と偏見』と『マンスフィールドパーク』は読んでいたのだが、問題はヘンリー・ジェイムズで、彼の本は一冊も読んだことが無かった。パラパラと「ジェイムズ」の章をめくってみるとどうやら『デイジー・ミラー』を読んでおけばとりあえずなんとかなりそうだったので、まずは新潮文庫の『デイジー・ミラー』に取り掛かることにした。
ヘンリー・ジェイムズ(1843 - 1916)はアメリカ生まれの作家だが、裕福な生まれだった彼は少年時代から何度もヨーロッパ旅行を経験しており、また30代の頃にロンドンに移住しているので、生涯のうち欧州で過ごした時間の方が長かったようである。『デイジー・ミラー』は19世紀末における「奔放なアメリカ娘」が「因習にとらわれた保守的な欧州人」から白眼視されるのを「欧州で過ごしている米国人」であるウィンターボーンが観察しているという構図だ。正直なところ、対立図式が単純で小説が短いので、骨組みの理屈しか残らないスルっとした読後感になりがちな作品だと思うが、これは私が男性であるからこそケチらず余分に想像力を発揮すべきだったという話な気もする。そうは言っても、この『デイジー・ミラー』が重厚な作品ではないことは確かなので、複数作品しっかり読んでジェイムズの描きたかった世界を立体視すべく『ワシントン・スクエア』と『ロデリック・ハドソン』を買った。そういえばちなみにフィッツジェラルドの『グレイト・ギャツビー』も実は私はあまり隅々までしっかり覚えているというわけでもなくて、近々再読しようと思っているのだが、同じ訳で読むのもつまらないので村上春樹訳を買ってしまった。そう、これが積読が増えていくメカニズム。
そして一応こうしてヘンリージェイムズも読んだので『テヘランでロリータを読む』に取り掛かった。著者のアーザル・ナフィーシーは親戚に学者や政治家がたくさんいるイランの名門一家の出で、父がテヘラン市長であり母は国会議員だった。本人も13歳からアメリカに留学し大学教育を受けており、典型的な「西洋化したエリート」である。米国にいたときには左派の活動家に対する並々ならぬ共感があったようだ(デモには頻繁に参加していたと本書にも記載がある)。そんな彼女は1979年のイラン革命と同時に祖国に戻ったわけだが、そこで彼女は「米国資本と癒着したパフレヴィー朝の打倒」という左派的な理念のあった革命が、やがてホメイニが主導する抑圧的なイスラム革命一色へと変わっていくのを目の当たりにする。その後、宗教勢力に牛耳られた革命政権による監視、不当な逮捕、恣意的な裁判、そして投獄や処刑といった全体主義的な抑圧と、革命後に勃発したイラン・イラク戦争の混乱に飲み込まれていく。イランに帰国してからしばらくはテヘラン大学で文学を教えていたが、女性のヴェールの着用の強制など、女性差別的な規範にもとづく規則の押し付けを拒絶し、大学を去る。この本は彼女が大学での職を辞した後に、彼女の生徒の中で特に優秀で文学への情熱をもった学生達相手に自宅でおこなった秘密の読書会を軸とした回想録だ。なので、この本では『ロリータ』や『高慢と偏見』などに関して厳密な読みが展開されるというよりも、人間の尊厳がグシャグシャに踏み躙られていた頭脳明晰なイラン人女性達にとって、小説を読むということはどういうことなのか、物語にどういう力があるのかが語られている。具体的には『ロリータ』のハンバート・ハンバートの中に、生身の人間に観念的理想を押し付けることのグロテスクさを見たり、『デイジー・ミラー』の中に社会に反逆すること、支配的な価値観に異を唱えることの勇気を見出すわけだが、著者も書いているとおり、抑圧された状況であればあるほど想像力を働かせ登場人物に共感するということが生きる力につながるのだ。このような文学の読み方はある意味単純というか、文学の価値を肯定しようと試みるときにもっと違った光の当て方はいくらでもできるのではあるが、過酷な状況がそこにあり、その中で文学を読むことによって実際に救われた心があったことが、誰もが知る英米文学の名作とともに語られているということで、それ自体十分読まれるに値する面白い書物だったと思う。