『ミドルマーチ』

私のような海外文学を読むのが好きなだけの素人はどうしても、日本における評価や日本語訳の手に入りやすさというファクターに読書経験が影響されやすい。ロシア人が驚くほど日本にはドストエフスキー読者がやたら多いというように紹介・翻訳というフィルターがプラス?にはたらくこともあれば、世界的に高く評価されているにもかかわらず日本における読者が不当に少ない作品もあるだろう。自分の不勉強やアンテナの低さを棚に上げるわけではないが、『ミドルマーチ』は、光文社から新訳を出された廣野先生も言っているように世界的な評価と比較して日本での知名度が低い小説ということになるのだと思う。恥ずかしながら最近まで私もエリオットの名前や作品も聞いたことがあるくらいというレベルであった (ジョージ・エリオットという男性のペンネームを使った女性だということも最近まで知らなかった) ところ、この本が「アンナ・カレーニナと並び称される」と宣伝されているのを見かけて「さて本当かしらどれどれ」くらいの心持ちで読み始めたのである。

偉大な小説を読んでいると、しばしば自分が過去に読んだ他の偉大な小説の記憶が頭の中に次から次へと溢れ出てくることがある。『ミドルマーチ』はイギリス人の女性が書いた作品ということで、多くの人はなんとなしにジェーン・オースティンの作品を (読んだことがあれば) 思い浮かべながら読むだろうし、「田舎町の、結婚問題を軸にした人間関係の物語」という様に括ってしまえば近い主題を扱っていると言えなくもない。話は脱線するが、あまり単純化し過ぎると詳しい人に怒られそうだがジェーン・オースティンの作品は『めぞん一刻』にかなり似ていると私は思っていて、両者ともに限られた舞台、限られた人間関係という箱庭の中で展開される軽妙でほのぼのとしたユーモアと人間関係のドタバタ劇というのが基本だが、ここぞという場面で一気に深刻な筋書きの小説を読んでいたかと錯覚するくらい緊迫感のある人間ドラマが現れつつ、そうは言っても最後は皆が納得する結末が用意されている。ミドルマーチに話を戻すと、こちらは少し様相が異なっており、確かに舞台設定は英国の田舎の人間関係なのだが、作者による地の文章での人物描写のボリュームが大きく、その筆致も非常に鋭利である。筋書きも、決して絶望感だけ残して放ったらかすわけではないが (そういう筋書きが悪いとは言っていない) 、未来への可能性のあった高潔な人間性が些事に塗れて敗北していく様なども冷徹に描かれる。また人間性が火花を散らす重要な場面の緊迫感も一段凄まじい。似ている作品、想起する作品という意味では、複数の人間が (複数の人間関係の結び目・衝突点が)、その時代の社会という軛の中で運命づけられていく様が圧倒的な筆力で語られていく点では、まさにトルストイを読んでいる時に感じた、息の詰まるような読書経験に近い。

少し前にスタインベックの『怒りの葡萄』を読んでかなり感動したこともあって、やっぱり過酷な環境や巨悪によって人間性が轢き潰されていくような叙事詩から滲み出てくる文学ってすごいなぁという気分に振れていたのだが、そういった極端なものが仮になくとも、社会という与えられた条件の中で力の限りもがこうとする人間が見せる汲み尽くし難い様々な表情というものを、偉大な文学は見事に切り出して我々に提示してくれるのだということをあらためて実感した。