昭和の時代の流行りの本

Twitterにも書いたが、近ごろ酒を飲むと翌日の気分の落ち込みが酷い。二十代のころであっても、身体的な二日酔いと後悔や自己嫌悪のような気分の悪さはセットのようなものだったが、最近はちょっと自分でも心配になるくらいメンタルにくる。煙草にしろアルコールにしろ、身体が嗜好品に耐えられなくなるのは寂しいことだ。むしろ人生これからの方が酔うことなしに生きていくのが難しそうであるのに。

最近『限りなく透明に近いブルー』を読んでみたのは、それが理由なわけではない。先日のポール・オースターの『ガラスの街』に関する記事にも書いたが、文学と一言で言っても人によって頭でイメージするものが異なる。私は比較的食わず嫌いせずに色々読むタイプではあるものの、やはり高校生~大学生時代によく読んでいたものが(私にとって)一番文学の顔をしている。ドストエフスキーカミュのような作家を夢中で読んでいたのが最初期で、フローベールトルストイを読んでその力量に慄いたのがその次くらいだっただろうか。その他にも、ジェーン・オースティンやブロンテ姉妹が面白いとか、はたまたラシーヌの戯曲がすごいとか、ふらふらとつまみ食いばかりしていたが、やはり「古典」と言われる作品を読んでいくのが基本的な姿勢だった。だから、村上龍の本も初めて読んだ。

芥川賞の作品を追うということはしていなくて、数えるほどしか読んだことがない。柴田翔の『されどわれらが日々』については以下でも記事を書いているが、近ごろまで本当にそのくらいで『蹴りたい背中』を高校の教室で回し読みしたのは、あまり多くない清涼感のある(?)思い出のうちの一つだ。
rastignac.hatenablog.com

最近の自分の関心として、自分がどういった条件付けでこの世に放り出されたのかということを考えることが増えた。恐らく人生でどうにもならないこと、諦めなければいけないことが増えてきたからだと思う。別に自分が「華麗なる一族」の出自でないことを言い訳にして現状に文句を言おうという魂胆ではないが、両親や祖父母が生きた時代はどう語られていて、そして両親や祖父母はどれだけ「語られるに値する」ものを見ることができたのか、できなかったのか、それを知りたくなった。そもそも、「近代文学は終わった」(柄谷行人の本は、いつまでも積んであるままである)のであれば、世相を理解するために流行った文学を読もうというその姿勢自体にセンスが無いということなのだと思うが、歪みはあったとしても、まだ小説は「時代を写す鏡」であるとも思うので。

「流行った純文学」というジャンルの作品の中で、その時代で語られるに値する何かが本当に語られているのかはわからないが、そういうわけでこの頃やたらと『太陽の季節』とか『なんとなく、クリスタル』とか『限りなく透明に近いブルー』とかを読んでみている。それぞれにそれぞれの面白さはあるが、こういった作品を前にして頭を抱えた当時の選考委員達の方に共感してしまう自分もいる。