雑記 (2020年上半期に読んだ本)

自分がどの本をいつ読んだのかというのは意外とすぐに忘れてしまうので、読書記録がてら、簡単に2020年の上半期に読んだ本について書きたいと思う。そういえば大学生の頃は今は懐かしのmixiにブックレビューを載せていたから大体いつ何を読んだのか記録できていたが、ここ10年近くは残っていない。基本的に私は空いた時間は常に何かを読んでいるタイプの人間だが、同じ分野の本を集中的に読んでいると飽きてしまうので、ジャンルは結構バラバラである。

  • 『日本語で読むということ』(水村美苗
    水村美苗氏の本は以前に『日本語が滅びるとき』をとても面白く読んだが、こちらの『日本語で読むということ』は短いエッセイ集のようなものでだいぶ肩の力が抜けた文章が多い。著者は、漱石の文体をコピーした『続明暗』や『嵐が丘』の日本版を書かんとした『本格小説』などの秀作を世に出した作家として知られているが、10代の頃に米国に渡って以来、大学院まで米国で過ごしYale大学でPaul de Manのもとでフランス文学を研究している。彼女がYale在学中に一時同大学でも教鞭をとっていた加藤周一と交流があったようで本書の中でも何度か登場するが、こういった知識人との思い出、みたいなものは羨ましい。私は加藤周一の最晩年、駒場の900番講堂で平和について息も絶え絶えに語る彼を遠くから眺めることしかできなかったが、生きて話す彼を見たということを、私は老人になってからも人に自慢するだろう。水村氏の生涯を特徴づけている、明治期の文豪らによる優れた日本語への懐旧の情も、本書に書かれている加藤周一との思い出話のような昭和の知識人への憧憬も、昭和末期生まれの私にとってそう切実な問題でなく、アナクロニズムへのアナクロニズムに過ぎないだろう。ただ、昭和末期~平成初期に生まれた世代に共通の記憶であろう、時代意識の耐えがたい希薄さも、この数年の世界情勢を見ると贅沢品になりつつあるように思えて胸騒ぎがするのも事実である。
  • The Plague, Albert Camus
    アルベール・カミュの"La Peste"の英訳(邦訳『ペスト』)。東京で新型コロナウイルスの緊急事態宣言が出るより少し前から『ペスト』がやたら売れていると何かの記事でも読んだが、私も家にある英訳版に手を付けるには丁度よいタイミングと思い読み始めた。アルジェリアの港町Oranにペストが流行し町が封鎖されるという話で、ペストとの不屈の戦いを続ける医師Rieuxを語り手として、容赦なく命を奪うペストとの闘い、封鎖された都市に閉じ込められた人間の連帯と抵抗が淡々とした語り口で綴られる。『異邦人』でこの世界は不条理であると説いたカミュナチスによる欧州の蹂躙、パリの占領を前に連帯と抵抗を一つの答えとして提示しようとした。語り手のRieuxの他にも聖職者のPanelouxや新聞記者のRambert、Oranに偶然訪れていたTarrou下級役人のGrand、Grandの隣人のCottardなどの作中人物らが、各々の状況や信念に基づき災禍をどう受け止めるかが描かれる。
  • The Outsider, Albert Camus
    せっかく『ペスト』を読んだので、勢いで『異邦人』も久しぶりに英訳で再読した。中学生の頃、新潮文庫のマスコットキャラクターのパンダ(Yonda君)のお導きに従って片っ端から海外文学を読んでいたが、短い小説だしとりあえずと軽い気持ちで読んだものの何故これが世界的な名作と言われているのかさっぱりとわからなかった。そういえば大学一年生の頃、仏語の先生に「カミュのL'Etrangerは単純過去時制をほとんど使わないから(文法の勉強が終わっていない)今でも読める」と唆されてフランス語で読み始めたものの半分ほどで放り出したこともあり、個人的に挫折の思い出が多い作品である。やたら(批評家が「零度」だの「白色」だのと言っているように)無色透明な書き方をしていることも手伝って、「不条理の哲学」などと言われてもどうしてそもそも主人公のMeursaultがこうも生に対して無関心であるのか中々正体を掴むことが難しいが、戯曲の『カリギュラ』や『シーシュポスの神話』と合わせて読むと比較的簡単に補助線を引かれるのでそちらも合わせて目を通しておきたい。しかし、以下でも触れるが、『カリギュラ』は今どこかの出版社で日本語訳は出ているのだろうか。今時、いい本でもすぐに絶版になってしまうので、中身のない見栄と言われるのかもしれないが、かつての昭和の文学全集ブームも捨てたものではなかったのではないか。
  • カミュを読む: 評伝と全作品』(三野博司 )
    日本のカミュ研究者が、タイトル通りカミュの生涯とともに全作品をなぞった本。カミュは人気の割に中々いい本が見つからないなと昔から思っていたところ漸く発見した。カミュは私の読書遍歴の序盤から結構好きな作家で、新潮文庫で安く手に入る『幸福な死』、『異邦人』、『ペスト』あたりの小説と、哲学エッセイ『シーシュポスの神話』を読んだところで、収録されている戯曲の『カリギュラ』が読みたくて新潮世界文学のカミュ全集の第二巻を買った。お金が無くて困っていたあの頃に4,500円の本を買うのはだいぶ勇気が要ったが、amazonで調べてみたら古本が20,000円で売られていたので良い買い物だったのだろう。あとはカミュサルトル論争として知られる『革命か反抗か』も新潮文庫で読めるが、論争のもととなった大著『反抗的人間』はやはり上述の全集でしか読めない。正直なところ『反抗的人間』は同時代人でもない限り中々通読できる代物ではないように思うが、その内容はとりあえずおいておいても『革命か反抗か』に収録されている『A.カミュに答える』というサルトルカミュをコテンパンに叩きのめした論文で発揮されるサルトルの論戦巧者ぶりは目を見張るものがあり、サルトルにちょっと憧れて駒場図書館の閉架から『シチュアシオン』を引っ張り出して拾い読みしていた時期もあった。話を標題の本に戻すと、カミュは学者でもなければ、哲学者でもなく、また彼の生きた時代が戦争と政治的混乱のさ中にあったこともあり、エッセイにしても戯曲にしても小説にしても、うまく時代背景や彼自身の人生に関する知識で補ってあげないと意図を汲みとりづらいことがある。そのため、本書のように彼の生涯と一つ一つ作品を丁寧に紐解いてくれる本は大変有難い。
  • 『新エロイーズ』(ジャン・ジャック・ルソー
    書簡体の恋愛小説。ルソーは確か社会人になってすぐの頃に『人間不平等起源論』を読んでなんだかやたら読みづらい文章書く人だなと思って以来避けていたのだが、18世紀の書簡体の小説という意味でラクロの『危険な関係』を読んでおいて『新エロイーズ』を読んでいないのも片手落ちかと思い読んではみたが、やはり文章がくどくて疲れた。欧州の批評家などが書いたエッセイなどでサン・ブルー(主人公の男の名)の名が出てきてもピンとこないのは癪だという気持ちだけで読み通した感はある。『危険な関係』はテレビのサスペンスドラマ的なちょっと下世話な好奇心で読み進められるが、こちらは徹頭徹尾クソ真面目なのでそうはいかない。とはいえ、通読してみて感じられる、この小説にみっちりと書かれているような徳や家族や階級といった宗教・社会規範の中で悶え苦しむ人間と、規範を失い何を選び取ってよいかわからなくなったことでかつての権威あった規範の劣化コピーのような薄っぺらい価値観に結局は縛られるいまどきの人間のコントラストには考えさせられるものがある。
  • 巨匠とマルガリータ』(ミハイル・ブルガーコフ
    奇才や奇書という言葉も疾うに陳腐化しているので使うのも憚れるが、混沌とした物語が溢れ出てくる本書のような小説を読むとそう評したくなる。本筋の舞台は革命後のソ連・モスクワ。キリストを処刑したポンペイウス・ピラトゥスの葛藤の物語を描いたが内容が反革命的であったことから出版が儘ならず原稿を自ら燃やしてしまい精神病院に入院している「巨匠」とその愛人マルガリータが主人公であり、また、この本筋とキリストを処刑したピラトゥスの物語が平行して進んでいく。そもそも冒頭から悪魔が出てくるし、その悪魔が巻き起こす様々な事件、黒魔術のショーやそれによるモスクワの騒乱など荒唐無稽な話が次々と続き、また随所にソビエト社会への風刺が効いた箇所もあり読んでいて飽きない。ブルガーコフは彼の戯曲の愛好者であったスターリンと知己であり、そのお陰もあり劇場の仕事を得ていたものの、スターリンの権力が増し粛清の嵐が吹き荒れるようになってからは彼の作品も当局の検閲を逃れることはできず多くの作品が出版禁止となった。この『巨匠とマルガリータ』も彼が亡くなった年の1940年には書き上げられていたが、作品が世に出るには1966年まで待たねばらなかった。自由に作品を公表することができなかったブルガーコフの生涯は精神的な苦難の多いものであったが、『巨匠とマルガリータ』は陰鬱な小説ではなく、作家の非凡な想像力によって極彩色に染め上げられている。
  • 『日本の文学』(ドナルド・キーン
    ドナルド・キーン氏は有名な日本文学研究者だが、氏の本を読むのは初めてだった。(日本文学をよく知る)西洋人から見た日本文学を論じた本というのは数が少ないだろう。もともと氏の『正岡子規』が読みたくで本を物色していたところこんな本も出していたのかと知って読み始めた。万葉集に始まり、芭蕉近松門左衛門、そして明治から昭和にかけての作家について。

【社会科学系】

  • Capital in the Twinty-First Century, Thomas Piketty
    フランスの経済学者Thomas Pikettyの"Le Capital au XXI Siecle"の英語訳。世界中で話題になり、日本でも『20世紀の資本』という題で邦訳されてよく読まれた本である。どうやら最近映画化されたらしいが、18世紀後半以降のデータをまとめて経済格差を論じるこの本をどう映画化したのかは観ていないので定かではない。本書は所得や資産のデータが不完全ながらもなんとか手に入る18世紀後半以降の欧米を主に扱っているが、このくらいの長期間で眺めてみると、戦後復興という極めて特殊な政治経済事情の延長である現代、そしてその延長の発想から抜け出ていないことによる問題が浮き彫りとなっている。ちなみに19世紀の社会状況を説明するにあたり、バルザックジェーン・オースティンの作品が具体的に参照されているのも面白い。バルザックの作品群は、いわゆるsocial ladderを昇るのだという気負いを私に植え付けた意味で個人的にも思い入れのある作品だが、若いRastignacが弁護士として身を立てるというよりも、社交界への出入りをパリとの「戦い」の手段として選んだ当時の社会状況が、経済的格差という観点で浮き彫りになるところは非常に興味深かった。
  • Capitalism without Capital - The Rise of the Intangible Economy, Johathan Haskel and Stian Westlake
    こちらも『無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体』という題で日本語訳が出ている。「産業構造の高度化」という言葉はよく聞く言葉であるが、では一体それが何を意味するのか。かつての、有形資産(工場や機械など)への投資によって利益を生み出すという経済活動が主であった世界から、研究開発やブランド、ソフトウェア、ノウハウへの投資に軸足が移った現代において、企業の在り方、制度の在り方はどう影響を受け、そしてどう変わるべきであるのかを論じている。ちなみに本を全て読む時間がない(英語のわかる)人はこちらで著者らが1時間程度でエッセンスについてわかりやすく語っているのでおすすめしたい。
    https://www.youtube.com/watch?v=V0mhgsyXn9A
  • ミクロ経済学の力』(神取道宏)
    教科書。学生時代、自分は経済学部でもなかったこともあり、特に目的もなく初学者向けのミクロ経済学の教科書を読んで、ちょっとわかったような全然わからないような、面白いような面白くないような、という気分で放り出して以来、恥ずかしながら真面目に勉強してこなかった。どうやら初学者向けの経済学の本は数式がなさすぎて雰囲気しか分からないらしいということで、中級者向けの本を読んでみようと思い立ったところ、評判のよい学部生向け教科書にたどり着いた。他の教科書をろくに知らないので比較はできないがとても良い本だと思う
  • 『リスク』(上・下巻)(ピーター・バーンスタイン
    ニューヨーク連銀や投資顧問会社の設立など、金融実務の世界で一流の成功者である著者が、統計学・確率論、そして金融理論の発展史を描いたもの。前半はパスカルやベルヌーイ、ガウスなど誰もが知る数学者の話から、マーコビッツポートフォリオ理論やブラックショールズモデルなどの金融理論の生い立ちやその影響を史実として描きだしており非常に面白い。
  • 『IGPI流経営分析のリアル・ノウハウ』
    ツイッターで誰かが紹介していたので読んでみたが、内容は忘れてしまった。それなりに面白かったような気もするのだが、恥ずかしながら昔から私はこの手のビジネス書を読んでも内容があまり頭に入らない。そういえば本題と関係ないのだが、この本もそうであるように、実務家と学者・評論家、ジャーナリストと学者・評論家とような敵対図式をチラチラと見せるような著者は多い。双方共に、おそらく他方に傷つけられたり苛立たされたりすることもあるのだろうが、対立に無用なエネルギーを使うことには感心しない。せっかく賢いのであれば、勉強を厭わず、人間の相互理解可能性の方にチップを置き続けて欲しいと思う。

【自然科学系】  

  • 『自己組織化と進化の論理』(スチュアート・カウフマン)
    学生として生命科学には足を突っ込んだことがあることもあり、いまでも関連分野の書籍にはたまに目を通したりするが、とは言っても教科書や論文の類でなく一般向けに書かれた本ばかりである。先日、教養学部の金子先生が『普遍生物学』という本を出され、その前の『生命とは何か』と合わせて読もうと買い込んだのだが、新しい本を読む前にそういえば十年も前に『自己組織化と進化の論理』を買ったまま積んでいたことを思い出し、まずはこちらを読もうということで読み始めて漸く読み終わった。自分の関心についてはシュレーディンガーの『生命とは何か』あたりから始めて整理してみたい気もするがまたの機会にする。
  • 『ウイルスプラネット』カール・ジンマー
    人気のサイエンスライターが書いたウイルスに関する一般向けの本。分量も少なく生物学の教育を受けていなくても読めるように書いてあるので、コロナ蔓延で興味を持った方向けによいのでは。元々この本を買ったのは『大腸菌』という同著者の本が分子生物学のよくまとまった一般書で面白かったため。