『ガラスの街』

一言に小説と言っても、少しずつ人によってイメージするものが異なると思う。多くの作品を読んできた本好き同士であっても、それまでの読書経験で形作られたそれぞれの異なる小説像があって、よくよく話してみると一方にとって当たり前なことが他方にとって新鮮であったりすることがある。時代と地域・言語の2軸で、自分がまだ読んでいない空白地帯を埋めていくように読書計画を立てて読書を進めていると、それまで自分が知らなかったタイプの小説にちょくちょく出会うことができる。そして、ひとたびその良さを認識するための「認識の枠組み」みたいなものができると、今度はその枠組みを使って過去に読んだ作品を思い返し、新しい光を当ててみることができる。

この間読んだポール・オースターの『ガラスの街』も私にとっては新しい経験で、今後の読書における「小説の読み方・楽しみ方」の道具を一つ増やしてくれた本になったと思う。この本の冒頭は「ミステリ小説作家が間違い電話に端を発して奇妙な事件に巻き込まれていく」というもので、ありがちなミステリ小説の門構えだが、中身はだいぶ異なっており、(もちろんある程度謎解き的な展開はあるものの)出来事が次々と起きて事件が発展していくというわけではなく、最終的に謎の解決にも至らない。物語の本線は最後まであくまでも細い芯として存在し、むしろその周りに意匠を凝らしたメタフィクションが幾重にも仕込まれており「物語に関する物語」が至るところで語られるという点がこの小説の面白いところだ。しかもその「語り」の中には信用できなかったり、明確でないものが混じっており、「確実に正しい話」を取り出すことが困難になっていることから、フィクションの中で宙づりにされたような感覚に陥る。手が込んだことに、作中人物が(メタフィクションが含まれることで有名な古典的作品である)セルバンテスの『ドン・キホーテ』に関する試論を展開しており、それがこの作品自体のある種の解題として機能しており、作品のメタフィクショナルな構造に対して言及がなされているなど、非常に芸が細かい。そして何よりも、この短い小説の中でこれだけのことを、読者を突き放すような難解さ無しに実現しているところに作者の非凡な力量が発揮されている。

あまりに構造のことばかり書いたため、中身は無い本なのかと思われるかもしれないが、そういうわけではなく、妻子を亡くしこれといった人生の目的もなくニューヨークで日々を送る作家の孤独や、ミステリ小説的な展開の妙など、いわゆる「中身」についても語るべきことはあるが、私個人的な経験として、小説としての形式が崩れない程度に最後まで物語の芯を残しつつ、メタフィクションの展開によって小説にボリュームが出す、ということがここまで巧みに実現し得るものなのかという感嘆がより大きかった。これまでポストモダンに分類されるような技巧的な小説はあまり読んでこなかったのだが、せっかくなので食わず嫌いはやめて色々と手を出してみようかと思っている。