『居酒屋』

少し前にゾラの『居酒屋』を読み終えて、これは中々面白いなと思ってからメモ書きくらいはしておこうと思ったまま放ったままになってしまっていた。例えばトルストイの長編のような偉大な小説を読んだ直後は、その力に圧倒されて椅子の背に身体を押し付けられたまま身動きができない、というような感覚におちいることもあるが、『居酒屋』の読後感はそうでもない。物語の後半三分の二くらいを半日で一気に読み切ってしまったのだが、面白くて夢中でページをくったというより、勢いで読み切らないと途中で頓挫してしまうかもしれないと思ってあえて気合を入れて読み切った感じである。

マルセイユからパリに上京してきた主人公の女ジェルヴェーズが少しずつ不幸に飲みこまれて破滅していく様子を軸として、ナポレオン三世第二帝政下におけるパリの下層階級の生活を描いた作品だが、作中には高潔な人物はほとんど出現せず、かと言って傑物と言えるような魅力的な悪党が出てくるわけでもない。作中人物達は誰も彼もうんざりするほど卑小な人間達で、稀に彼らの中に美点を発見できたとしてもせいぜい消極的な道徳や習慣的な勤勉さ程度のものである。ユゴーのように貧しさの中に人間の真心や偉大な性質を見出すことのできるような物語も書こうと思えば書けたのであろうが、ゾラは意識的にロマネスクな筋書きをほぼ徹底的に排除している。

 『居酒屋』を読んだあとにゾラの評論集にも少し目を通したが、その中でも彼はユゴー的なロマン主義的な物語に対する対決姿勢を明確にしている。『レ・ミゼラブル』と『居酒屋』を無理矢理比べてみるとすると、たとえばジェルヴェーズも確かにわが子を愛してはいたが、ファンテーヌと違い結局は自らも酒に溺れアル中の旦那と同じように娘のナナを殴るし、ナナはナナで(コゼットとは違い)すっかりグレてしまい身体を売って小金を稼ぐ女に育つ。ジェルヴェーズと一緒にパリに上京してきてその後女をつくって蒸発したランチエは左派の思想を抱いているが具体的にやっているのは論説記事の切り抜きを集める程度のことであり、アンジョルラスのような行動力やカリスマ性の欠片もない。さらに言えばゾラは、作中人物に偉大な性質さを付与しないばかりか雄弁に語ることも許しておらず、たとえば大概悲惨なこの作品の中でもとりわけ凄惨さをきわめる場面である、ジェルヴェーズの近所に住むラリーという少女がアル中の父親からの虐待の末に衰弱して病死するところなどは、これが『カラマーゾフの兄弟』であれば、イワン・カラマーゾフがその先五十ページにわたって神を呪った演説をぶつであろうと思われるほどだが、ジェルヴェーズも既に完全な文無しで餓死寸前であり、死んだラリーに一瞥をくれるほどの余裕しかない。

ゾラは自らの小説にドラマを与えないわけだが、彼自身はそれを「科学的」であると考えていたようである。彼が規定し実践した「自然主義小説」は、言うなればパリという虫かごの中にうごめいている昆虫の観察記録のようなものである。『居酒屋』一作だけでは明らかにならないが、『居酒屋』もその一部に含まれる『ルーゴン・マッカール叢書』と名付けられた作品群全体を通して、ゾラは人間の自然的(遺伝的)条件と社会的条件によってあらわれる人間のあるがままの性質をあきらかにしようとした。現代的な観点で見れば「自然科学的」に人間社会を観察しその性質を明らかにするという考え方はかなりナイーヴに映るし、「自然科学的」であることが持てはやされ過大評価されていた時代の産物と言ってしまえばそれまでではあるが、そうは言っても少なくとも『居酒屋』は中々読ませる小説であるのもまた事実である。ゾラにしてみれば自身の規定した反ロマン主義自然主義を忠実に実践したということであろうが、「ありのままを描いただけ」というにはあまりにも力強く現実がこちらに迫ってくる。おそらくゾラの天分は自然科学者としての観察力というよりもむしろ図抜けた構成力であったり想像力であったりしたのではないかと思われるし、類稀な才能が無茶な理論を一代限りで可能にした、というのが真実に近いのではないかと私は思っている。