芸術に関する雑文(3)

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審美的な判断力ということに関して、大学生の頃に初めて能を観にいった時に少し考えた(というほど大層な話ではなく、ぼやっと感じたという程度だが)ことがある。小さい頃にもしかしたら課外学習的な何かで観に行ったこともあったかもしれないが、記憶している限りではその時がきちんと能を観た初めての経験だった。流派や演者は残念ながら覚えていないが、場所は千駄ヶ谷国立能楽堂で、能の演目は「半蔀」だった。少しは予習をしておかないと楽しめないと聞いていたので、能のごくごく基礎的な知識と「半蔀」のだいたいの筋書きだけ頭に入れて臨んだのだが、感動した・楽しかったというよりも、何か新しいものを経験したぞというじわっとした興奮が残ったのを覚えている。予備知識なく能を観て面白いと思うことはまずないだろうし、初心者の知識では(他に数多ある舞台芸術と比較しても)感動することは簡単でない。能面や衣装は確かに美しいし、謡や楽器(笛や小鼓、大鼓)の調べにも引き込まれるものがあるが、それにしてもある程度受容する側に準備がないと視覚的・音楽的な快適さすら、おそらく感じることは簡単でない。玄人ぶって「気負わず虚心坦懐に観れば自ずと美しさもわかる」などと言う人もいるが、それはその人が必要な認識の枠組みを既に持った上で気楽に・自由に観られるようになったに過ぎないだろう。詞章と呼ばれるセリフをある程度覚えておかないと、何を言っているかはわからなくなるし、何を言っているかがわかったところで筋書き自体決して波瀾重畳というわけではない。能が完成したのは観阿弥世阿弥の頃、つまり14世紀室町時代だが、演目の多くは源氏物語伊勢物語平家物語など下敷きにしているそれ以前の古典作品があり、それを知ったうえで想像力を働かせる必要がある。筋書き・役柄にしても感情を表現する所作にしても極度に簡略化・類型化されており、あまりに形式が洗練されているがゆえに、内容はほとんど退化し、ほとんど無内容にすら見えることもある。しかし、「中身」の少なくない部分を観る側の想像力と知識に任せることによって、洗練された形式の美しさが純粋な形で立ち現れてくるということがこれほどわかりやすく感じられる芸術も他に中々無いだろう。その当時私は、これが美しいということなのだとすると、おおよそ芸術と呼ばれるもの本質の大部分はもしかすると、その内容にあるのではなく、それ自体が目的化したような合目的性なのではないかというようなことを考えたのを覚えている。

大学生の頃は(正直なところ今も)哲学書がどうも苦手だったのであまりきちんと勉強したことがなかったのだが、どうやらそのようなことは(もちろんもっときちんとした形で)哲学者のカントが『判断力批判』の中で定式化しているらしいということはだいぶ後になってから知った。曰く、美とは目的なき合目的性である、ということだそうである。人間の作ったもののうち、いわゆる道具(たとえばナイフ)であれば、特定の目的(ものを切る)に適った形や機能をもつが、言い換えれば客観的な目的のある合目的性を有しているが、美しいものは何らかの目的に依存して存在しているわけではない。特定の目的はないが、我々は対象に対して「ふさわしい」「意に適っている」という印象をもつことがあるが、それこそが美しいということだと、そうカントは規定した。特定の目的はないのに、合目的性の形式だけはあるというのが「目的なき合目的性」のおおまかな意味だが、その規定に従って考えれば、たとえば特定の情動を喚起することを目的とするような娯楽コンテンツ(「泣ける映画」、「笑える漫画」など)は特定の目的に資することが期待されているため、(少なくとも純粋な意味での)美しいものではないということになる。このような考え方を頼りにしながら芸術とは何かということを整理してみるとすれば、(言葉や絵や音楽や映像といったような)完結した様式の中で、人間や世界の在り方を模倣し、あるいは人間の内面にある情熱や苦悩を表現し、それがそれ自体でなければならないような、他の形であってはならないのだというような充実感を持っていること、とでも書き下すことができるのではないだろうか。

先に例を挙げた能などは650年間ものあいだ大きく変わらず存続しているが、一方で永久不変なものとして鎮座しているのではなく、激しくそのあり方が変転してきたものもある。むしろそういったものの方が多いだろう。これまで古典的な芸術作品の受容を通じて普遍的な眼を培うという話と、芸術とは特定の目的を持たない合目的な表現であるという話をたどたどしくしてみたが、そのような観点で芸術史を眺めると、合目的的な形式である芸術はその形式を巡る闘争の歴史であることが見えてくる。形式を揺るがし、変容させ、観る人間に新たな認識の枠組みを与えるような、そのようなものが「新たな古典」として生み出されてきたのが見て取れる。能のように観阿弥世阿弥の時代から大きく形を変えず純化されていったものももちろんあるが、文学、演劇、絵画、音楽などあらゆる分野において、表現形式を巡る闘争が見られ、形式を揺るがし発展させたものが芸術史の中で不滅の作品として残っている。ヒュームのいう「エリート批評家による品質保証」というのは、批評家が静的な「人間本性」に照らした品質保証を請け負っているというよりも、ある作品が、既存の芸術の形式に対してどのような意味を持つのかを問い返す役割を担っているという方が(ヒューム以降の芸術史を見ても)より正確だろうと思う。近代以降は特に「芸術には創造性が必要である」というイデオロギーに駆動される形で様々な形式の破壊と発展がおこなわれており、ぱっと思いつく有名なものとしては、フランスの文豪ユゴーがフランス古典悲劇の伝統的形式を戯曲『エルナニ』によって否定した「エルナニ戦争」や、同じくフランスの画家クールベが、なんでもない片田舎の埋葬の風景を宗教画や歴史画が描かれるような巨大な画面に描いた『オルナンの埋葬』をパリ万博から出品拒否されたことを契機に(史上初めてとされる)個展を開いて写実主義を主張した「レアリスム宣言」、あるいはやはりフランスの美術業界に一大スキャンダルとして登場したマネの『オランピア』などが華々しい芸術論争を巻き起こしたものとして挙げられる。「~論争」というような派手でスキャンダラスな形をとらずとも、芸術は常にその表現形式が問い返されそしてそれに応えてきたという人間の長大な営為であって、芸術を鑑賞し楽しむことはそれを追体験することでもあるだろう。
(以下に続く)
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