芸術に関する雑文(2)

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そもそもの問いと立て方として、岩波文庫のような「権威あるコンテンツ」を他の(サブカルのような)コンテンツとを対立させることからして意味がないのではという考えもある。文学作品や、あるいはクラッシックのコンサートや美術館の展覧会や古典芸能などのいわゆる「高尚な芸術」も、流行りの漫画やアニメ、SFやミステリ小説、テレビドラマや映画など数多あるコンテンツの一種であって、そこに区別や対立を見出さない人も多い。境界線をどこに引くかという問題もあるし、境界があったとしても、ものによっては時代とともにそれを越境してくるジャンルもある。いったんは(曖昧なゾーンはありながらも)そういった区分自体は存在するとしても、消費の場においてはそれらは雑多に並置されていることも多い。デジタルコンテンツではそれが顕著であるし、本屋に足を運んでもそうだ。であれば「なんとも言葉にし難い文学や芸術の本質」みたいな掴みどころのない話をするのではなく、真正面から「権威ある文学や芸術は娯楽コンテンツとして一級品なのである」と言えばよいではないかとも考えられるし、実際に文学や芸術を担う当事者達の中にはそういった趣旨の発信をする人も多い。出版社や書店が本心からそう思っているのかは分からないが、いわゆる古典的な文学作品の本の帯にも「予測不可能な驚愕の結末」だとか「究極の愛の物語」といったようなまるでテレビドラマの宣伝のようなキャッチフレーズが付けられて売られているのもそのためだろう。しかしとりわけ娯楽コンテンツが高度化している現代において、例えば少年ジャンプに連載されるような人気の漫画や何百億円という金額の予算をつぎ込んだNetflixのドラマを押しのけて、ドストエフスキー夏目漱石の小説が娯楽として一級品だと言うことはできるだろうか。そもそも「娯楽として優れている」とは何かという話ではあるが、それがどれだけ効果的に多くの人の喜怒哀楽の情動をかき立てることができるかという程度の話であるとすると、巧みな筋書きにしても、生き生きとした描写にしても時代を超えた技量はあり得るものの、時代や場所を隔てた物語を追うことのちょっとした(作品によっては多大な)困難さが情動の喚起を妨げてしまう。漱石の小説も当時は朝日新聞という一級のメディアに連載されるような優れた娯楽コンテンツとして読まれたことは確かだが、それでは、それぞれの時代と場所において感動を多くもたらしたものが「不朽の名作」として芸術の中に席を与えられるということが結論でよかったのだろうか。文学や芸術における名作群は過去に成功した娯楽コンテンツのアーカイブあるいはアンティークコレクションのようなものに過ぎないというのであれば、現代においてそれらを愛好することはせいぜいニッチな懐古趣味といった程度の話である。実際そのように整理して理解している人も多いだろう。

先に教養を崇める態度が「時代錯誤」で「没個性」と見られ得るという話をしたが、仮に古典とされる作品に「流行り廃り」を超えた永遠性があるのだとすれば、それらを尊ぶ態度が時代錯誤だという批判も失当に思えるし、それらに「蓼食う虫も好き好き」を超えた人類にとっての普遍的価値があるのであれば、没個性という批判も問題にならないだろう。しかし、文学や芸術における永遠性・普遍性は、それが仮に存在するにしても、少なくとも娯楽としての優劣とは必ずしも関係が無さそうであることは既に述べたとおりである。それでは「面白い」「泣ける」「ドキドキする」というようなこと以外に、どういった特徴が芸術作品に見出されているのだろうか。もちろん作品と言ってもそれが文学なのか(詩なのか小説なのか)、絵画なのか、演劇なのか、音楽なのかによって、評価基準は必ずしも同じではないだろうが、あえて広く芸術を一括りにして話をしたときに、たとえば美しい文体、美しい物語、美しい絵、美しい音楽、というように、美しさという判断基準は一つの共通の性質として挙げられると思う。そうは言ったところでそれでは問題を「美しさとは何か」という疑問にすり替えただけにも思われるが、具体的な作品に関して(それが妥当であるかは別として)「これは美しい、これはそうでない」という判断は日常的におこなわれている。そういった審美的な判断が妥当であるためには何が必要なのだろうか。ものの価値が分かった「趣味の良い人」というのはどういったものの見方をする人間のことなのだろうか。

過去の書物を紐解いてみると、このようないわゆる「趣味の問題」というのは現代的な問題というよりもむしろ近代(18世紀の欧州)において盛んに論じられたことのようである。市民社会が急速に発達していった当時の欧州では大衆がアクセスできる図書館や出版物、劇場、音楽会などの文化的インフラが続々と整備され、それまでは芸術といえばもっぱら芸術家とそのパトロン(王族・貴族)によって担われるものであったところが、その主導権が徐々に市民の手に移行しつつあった。作品の良し悪しの判定者が公衆となったことで「良き趣味とは何か?」「どのような基準で芸術作品は判定されるべきか?」という問題が人々の関心事として論じられるようになり、『人間本性論』で有名なイギリス経験論哲学を代表する大物哲学者のヒュームも「趣味の基準について」という短いエッセイの中でこの問題を取り上げている。「この絵は好きだ」とか「この小説は気に入った」といったような好みは人それぞれであって、他人の趣味にとやかく口出しをする権利は誰にも無いという常識的な考えがある一方で、過去から今に至るまで膨大に積み上げられ定着した諸作品への審美的判定が全くランダムなものかというとそれも直感に反する。ヒュームはこの二律背反に対して、ホメロス叙事詩のように時代や言語、風土や宗教などの違いを超えて人々が美しさを認める作品の存在に触れながら、こういった古典の受容を通してこそ「人間の本性」に基づき普遍的に価値のある芸術作品の判定ができるようになると述べている。もう少し詳しくヒュームの言っていることを見てみると、彼は古典とされる過去の芸術作品を受容し学ぶことによって、自らの置かれている歴史的・社会的文脈に特異的なものの見方を排した普遍的な眼を持つ「人間一般」として芸術の価値を判断する能力を培うことができると述べており、そういったエリート批評家こそが良き趣味の守り手を担うことができると考えている。またさらに、そういった普遍的な判断基準を持ったうえで、眼前の作品を鑑賞するにあたってはその場所その時代におけるコンテクストに自らを置きいれる必要があるとも言っている。言い換えれば、優れた批評家は個別性と普遍性を行き来することができ、そういった知的活動の中で人間の自然本性的な普遍性を見出していくということである。

自分が芸術を鑑賞するときの見方を思い返してみると、当然ながらヒュームの言うエリート批評家には及ばないにしても、自分の置かれた時代や場所と全く異なる環境で生み出された古典作品を多く触れることで、おそらく人間一般にとって普遍的に重要であろうことや、美しく感じられるであろうことがおぼろげながら像を結び、自分の中で「あれはよい、これはよくない」の判断基準になりつつあるということは感じられる。ただそれはあくまでも自分が触れた作品の範囲内で作り上げられたものであるし、もちろん自分の生まれ育ちによって形づくられた嗜好にも左右されているとも思われるため、それを人間一般に妥当する普遍的なものと言い切るまでの自信はいまひとつない。ひとまず場所や時間を超えた作品を立体視し、具体性と普遍性の知的な行き来をすることが「普遍的な眼」を持つのに必要なことは一旦認めるとして、それではその人間が本来持っている普遍的な眼とはどういった眼なのだろうか。普遍的な美的判断力とは何に美を見出すことなのだろうか。
(以下に続く)
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