芸術に関する雑文(4)

こちらの続き
rastignac.hatenablog.com

論争の話に触れたが、そういえば「芸術とは何か」ということを巡る華々しい論争を現代においても追いかけることができれば、現在進行形で新たな形式が芸術が生み出される現場に立ち会うことができるはずである。しかし、今現在(もちろんそれが皆無とまでは言わないまでも)、多くの愛好家を巻き込み熱狂させるような創造の現場があるのかというと、現代では「同時代の芸術」というもののあり方がだいぶ異なってきているようにも思われる。先に言及したユゴーであれマネであれ、今日では押しも押されぬ巨匠として崇められ、その作品は古典として確立された地位を築いているが、当時は(当然ながら)「同時代的」なものだったわけである。一方現代において、近代にあったような「絵画/演劇/・・・とは何か」という議論が活発におこなわれ(そして多くの人々たちの関心を引き)、それによって新しい芸術がダイナミックに生み出されているかというと、正直なところあまり心当たりがない。むしろ昔(100年以上前の)芸術は今でも人気で、クラシックコンサートのチケットはすぐに売り切れるし、過去の名画を観に多くの人が展覧会に訪れる。他方で、いわゆる芸術性を追求した現代美術、現代音楽、現代文学の潮流を熱心に追っている人たちの数は(過去の名作の愛好家と比べ)圧倒的に少なく、同時代的な芸術は大衆の興味関心を失って「業界関係者」のみのものとなっているように見える。

このような状況を少し乱暴にまとめてしまえば、20世紀に入ったあたりから芸術は観念レベルでの自問自答をし始めたということが関係していると思う。つまり、「何を」「どのように」ということに関する革新性の追求が行きつくところまで行った結果、対象のない「純粋形式」を追い求めるような作品や、芸術の定義自体の転覆を試みるような作品が産み出され始める。マルセル・デュシャンがニューヨーク・アンデパンダン展に向けて、(既成の)男性用の小便器を横に倒して署名したものに『泉』とタイトルをつけて出品したり(結局断られたようだ)、アンディ・ウォーホルアメリカの食器洗いパッドの「ブリロ」の外箱を本物そっくりに木箱で制作しそれをアート作品であるとした例などは有名だが、これらは「そもそも芸術とは何か?」を問うためだけに「芸術」として提出されたものである。このようないわば純化された芸術の自己目的化を企図したメタな問いを含んだ作品の出現により、芸術論争は観念的な哲学論争に回収され、「芸術の定義は芸術であることである」という同語反復的な多元主義を導いてしまったようである。このような本質的な芸術の多元主義と伝統的な「趣味・嗜好はひとそれぞれ」という相対主義が人々の中で無意識に混合された結果、芸術が雲散霧消してしまっている、というのが現状ではなかろうか。同時代の芸術は、「アートワールド」の文脈を踏まえずに理解することが極めて困難なものが多く、はっきり言ってしまえば芸術愛好家の中ですら人気がない。こういった現象と、大衆を相手にした娯楽が技術の進歩や消費文化の発達に伴い益々効率良く人々の心を揺さぶることのできるようになっていることで、カビ臭い文化遺産と、物好き業界人向けの奇抜な作品と、情動ポルノとが、脈絡なく商品として陳列されているのが現代に見られる光景だろう。そう考えると近代的な美学の理屈を援用したところで、一方の極にはデュシャンの便座が鎮座しており、他方には資本主義とテクノロジーによって極めて高度に発達した(ハクスリーが『素晴らしい新世界』で描いた"Feelie"のような)大衆娯楽がある中で、芸術の普遍的な価値を擁護するのは簡単ではないようにも思う。(続く)