芸術に関する雑文(4)

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論争の話に触れたが、そういえば「芸術とは何か」ということを巡る華々しい論争を現代においても追いかけることができれば、現在進行形で新たな形式が芸術が生み出される現場に立ち会うことができるはずである。しかし、今現在(もちろんそれが皆無とまでは言わないまでも)、多くの愛好家を巻き込み熱狂させるような創造の現場があるのかというと、現代では「同時代の芸術」というもののあり方がだいぶ異なってきているようにも思われる。先に言及したユゴーであれマネであれ、今日では押しも押されぬ巨匠として崇められ、その作品は古典として確立された地位を築いているが、当時は(当然ながら)「同時代的」なものだったわけである。一方現代において、近代にあったような「絵画/演劇/・・・とは何か」という議論が活発におこなわれ(そして多くの人々たちの関心を引き)、それによって新しい芸術がダイナミックに生み出されているかというと、正直なところあまり心当たりがない。むしろ昔(100年以上前の)芸術は今でも人気で、クラシックコンサートのチケットはすぐに売り切れるし、過去の名画を観に多くの人が展覧会に訪れる。他方で、いわゆる芸術性を追求した現代美術、現代音楽、現代文学の潮流を熱心に追っている人たちの数は(過去の名作の愛好家と比べ)圧倒的に少なく、同時代的な芸術は大衆の興味関心を失って「業界関係者」のみのものとなっているように見える。

このような状況を少し乱暴にまとめてしまえば、20世紀に入ったあたりから芸術は観念レベルでの自問自答をし始めたということが関係していると思う。つまり、「何を」「どのように」ということに関する革新性の追求が行きつくところまで行った結果、対象のない「純粋形式」を追い求めるような作品や、芸術の定義自体の転覆を試みるような作品が産み出され始める。マルセル・デュシャンがニューヨーク・アンデパンダン展に向けて、(既成の)男性用の小便器を横に倒して署名したものに『泉』とタイトルをつけて出品したり(結局断られたようだ)、アンディ・ウォーホルアメリカの食器洗いパッドの「ブリロ」の外箱を本物そっくりに木箱で制作しそれをアート作品であるとした例などは有名だが、これらは「そもそも芸術とは何か?」を問うためだけに「芸術」として提出されたものである。このようないわば純化された芸術の自己目的化を企図したメタな問いを含んだ作品の出現により、芸術論争は観念的な哲学論争に回収され、「芸術の定義は芸術であることである」という同語反復的な多元主義を導いてしまったようである。このような本質的な芸術の多元主義と伝統的な「趣味・嗜好はひとそれぞれ」という相対主義が人々の中で無意識に混合された結果、芸術が雲散霧消してしまっている、というのが現状ではなかろうか。同時代の芸術は、「アートワールド」の文脈を踏まえずに理解することが極めて困難なものが多く、はっきり言ってしまえば芸術愛好家の中ですら人気がない。こういった現象と、大衆を相手にした娯楽が技術の進歩や消費文化の発達に伴い益々効率良く人々の心を揺さぶることのできるようになっていることで、カビ臭い文化遺産と、物好き業界人向けの奇抜な作品と、情動ポルノとが、脈絡なく商品として陳列されているのが現代に見られる光景だろう。そう考えると近代的な美学の理屈を援用したところで、一方の極にはデュシャンの便座が鎮座しており、他方には資本主義とテクノロジーによって極めて高度に発達した(ハクスリーが『素晴らしい新世界』で描いた"Feelie"のような)大衆娯楽がある中で、芸術の普遍的な価値を擁護するのは簡単ではないようにも思う。(続く)

芸術に関する雑文(3)

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審美的な判断力ということに関して、大学生の頃に初めて能を観にいった時に少し考えた(というほど大層な話ではなく、ぼやっと感じたという程度だが)ことがある。小さい頃にもしかしたら課外学習的な何かで観に行ったこともあったかもしれないが、記憶している限りではその時がきちんと能を観た初めての経験だった。流派や演者は残念ながら覚えていないが、場所は千駄ヶ谷国立能楽堂で、能の演目は「半蔀」だった。少しは予習をしておかないと楽しめないと聞いていたので、能のごくごく基礎的な知識と「半蔀」のだいたいの筋書きだけ頭に入れて臨んだのだが、感動した・楽しかったというよりも、何か新しいものを経験したぞというじわっとした興奮が残ったのを覚えている。予備知識なく能を観て面白いと思うことはまずないだろうし、初心者の知識では(他に数多ある舞台芸術と比較しても)感動することは簡単でない。能面や衣装は確かに美しいし、謡や楽器(笛や小鼓、大鼓)の調べにも引き込まれるものがあるが、それにしてもある程度受容する側に準備がないと視覚的・音楽的な快適さすら、おそらく感じることは簡単でない。玄人ぶって「気負わず虚心坦懐に観れば自ずと美しさもわかる」などと言う人もいるが、それはその人が必要な認識の枠組みを既に持った上で気楽に・自由に観られるようになったに過ぎないだろう。詞章と呼ばれるセリフをある程度覚えておかないと、何を言っているかはわからなくなるし、何を言っているかがわかったところで筋書き自体決して波瀾重畳というわけではない。能が完成したのは観阿弥世阿弥の頃、つまり14世紀室町時代だが、演目の多くは源氏物語伊勢物語平家物語など下敷きにしているそれ以前の古典作品があり、それを知ったうえで想像力を働かせる必要がある。筋書き・役柄にしても感情を表現する所作にしても極度に簡略化・類型化されており、あまりに形式が洗練されているがゆえに、内容はほとんど退化し、ほとんど無内容にすら見えることもある。しかし、「中身」の少なくない部分を観る側の想像力と知識に任せることによって、洗練された形式の美しさが純粋な形で立ち現れてくるということがこれほどわかりやすく感じられる芸術も他に中々無いだろう。その当時私は、これが美しいということなのだとすると、おおよそ芸術と呼ばれるもの本質の大部分はもしかすると、その内容にあるのではなく、それ自体が目的化したような合目的性なのではないかというようなことを考えたのを覚えている。

大学生の頃は(正直なところ今も)哲学書がどうも苦手だったのであまりきちんと勉強したことがなかったのだが、どうやらそのようなことは(もちろんもっときちんとした形で)哲学者のカントが『判断力批判』の中で定式化しているらしいということはだいぶ後になってから知った。曰く、美とは目的なき合目的性である、ということだそうである。人間の作ったもののうち、いわゆる道具(たとえばナイフ)であれば、特定の目的(ものを切る)に適った形や機能をもつが、言い換えれば客観的な目的のある合目的性を有しているが、美しいものは何らかの目的に依存して存在しているわけではない。特定の目的はないが、我々は対象に対して「ふさわしい」「意に適っている」という印象をもつことがあるが、それこそが美しいということだと、そうカントは規定した。特定の目的はないのに、合目的性の形式だけはあるというのが「目的なき合目的性」のおおまかな意味だが、その規定に従って考えれば、たとえば特定の情動を喚起することを目的とするような娯楽コンテンツ(「泣ける映画」、「笑える漫画」など)は特定の目的に資することが期待されているため、(少なくとも純粋な意味での)美しいものではないということになる。このような考え方を頼りにしながら芸術とは何かということを整理してみるとすれば、(言葉や絵や音楽や映像といったような)完結した様式の中で、人間や世界の在り方を模倣し、あるいは人間の内面にある情熱や苦悩を表現し、それがそれ自体でなければならないような、他の形であってはならないのだというような充実感を持っていること、とでも書き下すことができるのではないだろうか。

先に例を挙げた能などは650年間ものあいだ大きく変わらず存続しているが、一方で永久不変なものとして鎮座しているのではなく、激しくそのあり方が変転してきたものもある。むしろそういったものの方が多いだろう。これまで古典的な芸術作品の受容を通じて普遍的な眼を培うという話と、芸術とは特定の目的を持たない合目的な表現であるという話をたどたどしくしてみたが、そのような観点で芸術史を眺めると、合目的的な形式である芸術はその形式を巡る闘争の歴史であることが見えてくる。形式を揺るがし、変容させ、観る人間に新たな認識の枠組みを与えるような、そのようなものが「新たな古典」として生み出されてきたのが見て取れる。能のように観阿弥世阿弥の時代から大きく形を変えず純化されていったものももちろんあるが、文学、演劇、絵画、音楽などあらゆる分野において、表現形式を巡る闘争が見られ、形式を揺るがし発展させたものが芸術史の中で不滅の作品として残っている。ヒュームのいう「エリート批評家による品質保証」というのは、批評家が静的な「人間本性」に照らした品質保証を請け負っているというよりも、ある作品が、既存の芸術の形式に対してどのような意味を持つのかを問い返す役割を担っているという方が(ヒューム以降の芸術史を見ても)より正確だろうと思う。近代以降は特に「芸術には創造性が必要である」というイデオロギーに駆動される形で様々な形式の破壊と発展がおこなわれており、ぱっと思いつく有名なものとしては、フランスの文豪ユゴーがフランス古典悲劇の伝統的形式を戯曲『エルナニ』によって否定した「エルナニ戦争」や、同じくフランスの画家クールベが、なんでもない片田舎の埋葬の風景を宗教画や歴史画が描かれるような巨大な画面に描いた『オルナンの埋葬』をパリ万博から出品拒否されたことを契機に(史上初めてとされる)個展を開いて写実主義を主張した「レアリスム宣言」、あるいはやはりフランスの美術業界に一大スキャンダルとして登場したマネの『オランピア』などが華々しい芸術論争を巻き起こしたものとして挙げられる。「~論争」というような派手でスキャンダラスな形をとらずとも、芸術は常にその表現形式が問い返されそしてそれに応えてきたという人間の長大な営為であって、芸術を鑑賞し楽しむことはそれを追体験することでもあるだろう。
(以下に続く)
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芸術に関する雑文(2)

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そもそもの問いと立て方として、岩波文庫のような「権威あるコンテンツ」を他の(サブカルのような)コンテンツとを対立させることからして意味がないのではという考えもある。文学作品や、あるいはクラッシックのコンサートや美術館の展覧会や古典芸能などのいわゆる「高尚な芸術」も、流行りの漫画やアニメ、SFやミステリ小説、テレビドラマや映画など数多あるコンテンツの一種であって、そこに区別や対立を見出さない人も多い。境界線をどこに引くかという問題もあるし、境界があったとしても、ものによっては時代とともにそれを越境してくるジャンルもある。いったんは(曖昧なゾーンはありながらも)そういった区分自体は存在するとしても、消費の場においてはそれらは雑多に並置されていることも多い。デジタルコンテンツではそれが顕著であるし、本屋に足を運んでもそうだ。であれば「なんとも言葉にし難い文学や芸術の本質」みたいな掴みどころのない話をするのではなく、真正面から「権威ある文学や芸術は娯楽コンテンツとして一級品なのである」と言えばよいではないかとも考えられるし、実際に文学や芸術を担う当事者達の中にはそういった趣旨の発信をする人も多い。出版社や書店が本心からそう思っているのかは分からないが、いわゆる古典的な文学作品の本の帯にも「予測不可能な驚愕の結末」だとか「究極の愛の物語」といったようなまるでテレビドラマの宣伝のようなキャッチフレーズが付けられて売られているのもそのためだろう。しかしとりわけ娯楽コンテンツが高度化している現代において、例えば少年ジャンプに連載されるような人気の漫画や何百億円という金額の予算をつぎ込んだNetflixのドラマを押しのけて、ドストエフスキー夏目漱石の小説が娯楽として一級品だと言うことはできるだろうか。そもそも「娯楽として優れている」とは何かという話ではあるが、それがどれだけ効果的に多くの人の喜怒哀楽の情動をかき立てることができるかという程度の話であるとすると、巧みな筋書きにしても、生き生きとした描写にしても時代を超えた技量はあり得るものの、時代や場所を隔てた物語を追うことのちょっとした(作品によっては多大な)困難さが情動の喚起を妨げてしまう。漱石の小説も当時は朝日新聞という一級のメディアに連載されるような優れた娯楽コンテンツとして読まれたことは確かだが、それでは、それぞれの時代と場所において感動を多くもたらしたものが「不朽の名作」として芸術の中に席を与えられるということが結論でよかったのだろうか。文学や芸術における名作群は過去に成功した娯楽コンテンツのアーカイブあるいはアンティークコレクションのようなものに過ぎないというのであれば、現代においてそれらを愛好することはせいぜいニッチな懐古趣味といった程度の話である。実際そのように整理して理解している人も多いだろう。

先に教養を崇める態度が「時代錯誤」で「没個性」と見られ得るという話をしたが、仮に古典とされる作品に「流行り廃り」を超えた永遠性があるのだとすれば、それらを尊ぶ態度が時代錯誤だという批判も失当に思えるし、それらに「蓼食う虫も好き好き」を超えた人類にとっての普遍的価値があるのであれば、没個性という批判も問題にならないだろう。しかし、文学や芸術における永遠性・普遍性は、それが仮に存在するにしても、少なくとも娯楽としての優劣とは必ずしも関係が無さそうであることは既に述べたとおりである。それでは「面白い」「泣ける」「ドキドキする」というようなこと以外に、どういった特徴が芸術作品に見出されているのだろうか。もちろん作品と言ってもそれが文学なのか(詩なのか小説なのか)、絵画なのか、演劇なのか、音楽なのかによって、評価基準は必ずしも同じではないだろうが、あえて広く芸術を一括りにして話をしたときに、たとえば美しい文体、美しい物語、美しい絵、美しい音楽、というように、美しさという判断基準は一つの共通の性質として挙げられると思う。そうは言ったところでそれでは問題を「美しさとは何か」という疑問にすり替えただけにも思われるが、具体的な作品に関して(それが妥当であるかは別として)「これは美しい、これはそうでない」という判断は日常的におこなわれている。そういった審美的な判断が妥当であるためには何が必要なのだろうか。ものの価値が分かった「趣味の良い人」というのはどういったものの見方をする人間のことなのだろうか。

過去の書物を紐解いてみると、このようないわゆる「趣味の問題」というのは現代的な問題というよりもむしろ近代(18世紀の欧州)において盛んに論じられたことのようである。市民社会が急速に発達していった当時の欧州では大衆がアクセスできる図書館や出版物、劇場、音楽会などの文化的インフラが続々と整備され、それまでは芸術といえばもっぱら芸術家とそのパトロン(王族・貴族)によって担われるものであったところが、その主導権が徐々に市民の手に移行しつつあった。作品の良し悪しの判定者が公衆となったことで「良き趣味とは何か?」「どのような基準で芸術作品は判定されるべきか?」という問題が人々の関心事として論じられるようになり、『人間本性論』で有名なイギリス経験論哲学を代表する大物哲学者のヒュームも「趣味の基準について」という短いエッセイの中でこの問題を取り上げている。「この絵は好きだ」とか「この小説は気に入った」といったような好みは人それぞれであって、他人の趣味にとやかく口出しをする権利は誰にも無いという常識的な考えがある一方で、過去から今に至るまで膨大に積み上げられ定着した諸作品への審美的判定が全くランダムなものかというとそれも直感に反する。ヒュームはこの二律背反に対して、ホメロス叙事詩のように時代や言語、風土や宗教などの違いを超えて人々が美しさを認める作品の存在に触れながら、こういった古典の受容を通してこそ「人間の本性」に基づき普遍的に価値のある芸術作品の判定ができるようになると述べている。もう少し詳しくヒュームの言っていることを見てみると、彼は古典とされる過去の芸術作品を受容し学ぶことによって、自らの置かれている歴史的・社会的文脈に特異的なものの見方を排した普遍的な眼を持つ「人間一般」として芸術の価値を判断する能力を培うことができると述べており、そういったエリート批評家こそが良き趣味の守り手を担うことができると考えている。またさらに、そういった普遍的な判断基準を持ったうえで、眼前の作品を鑑賞するにあたってはその場所その時代におけるコンテクストに自らを置きいれる必要があるとも言っている。言い換えれば、優れた批評家は個別性と普遍性を行き来することができ、そういった知的活動の中で人間の自然本性的な普遍性を見出していくということである。

自分が芸術を鑑賞するときの見方を思い返してみると、当然ながらヒュームの言うエリート批評家には及ばないにしても、自分の置かれた時代や場所と全く異なる環境で生み出された古典作品を多く触れることで、おそらく人間一般にとって普遍的に重要であろうことや、美しく感じられるであろうことがおぼろげながら像を結び、自分の中で「あれはよい、これはよくない」の判断基準になりつつあるということは感じられる。ただそれはあくまでも自分が触れた作品の範囲内で作り上げられたものであるし、もちろん自分の生まれ育ちによって形づくられた嗜好にも左右されているとも思われるため、それを人間一般に妥当する普遍的なものと言い切るまでの自信はいまひとつない。ひとまず場所や時間を超えた作品を立体視し、具体性と普遍性の知的な行き来をすることが「普遍的な眼」を持つのに必要なことは一旦認めるとして、それではその人間が本来持っている普遍的な眼とはどういった眼なのだろうか。普遍的な美的判断力とは何に美を見出すことなのだろうか。
(以下に続く)
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芸術に関する雑文(1)

だいぶ前になるが、Twitterでとあるアカウントが投稿した、岩波文庫で一杯の本棚の写真が「つまらない本棚だ」と皆に酷評されていた。岩波文庫は数ある日本の文庫レーベルの中でもとりわけ歴史が長く、また収録されている作品も文学的評価の定まった作品ばかりである。最近パンデミックの最中にアルベール・カミュの『ペスト』が新訳で収録されたことが話題になったが、特に20世紀以降に書かれた作品はかなり文学的評価が確立された作品であっても収録されていないものもある。ちなみに私も岩波文庫赤帯が詰まった本棚を持っているので、例の本棚が不評であるのを見て正直なところ心穏やかではなかったが、一方でそれをつまらないと言う人たちの言わんとしていることもわかる。専門書の類であれば、それぞれの分野で評価の定まった必読書を正しい順で読んでいくことに異論のある人はいないだろうが、それが文学となると少し違いそうだ。どのような小説を好んで読むか、もっと広く言えばどのようなコンテンツを好んで消費するかはその人の個性をあらわすものであって、権威ある必読書一覧の踏破が目的となっているような人は没個性で退屈な人間だと思われても無理のないことかもしれない。あるいは、とうの昔に流行りの過ぎた岩波的教養主義がいまだ人の関心を引くと思っている滑稽な時代錯誤の方が鼻につくかもしれない。そんな人を追い詰めるとすれば、一方から「自分でコンテンツを選び取ることのできない没個性性」をあげつらい、他方から「時代錯誤的な教養主義が個性足り得ると思い込んでいることの滑稽さ」を指摘すればよいだろう。しかし、そうは言ってもそれでは個性的で現代的な・同時代的なコンテンツ選びとは何かと問われた時に、せいぜい相対主義的・多元主義的価値観というセーフティーネットのうえでしかこねられない臆病な理屈しか出てこないのだとすれば、ナイーヴな権威主義者の方をむしろ擁護したい気持ちにもなる。私自身に大した教養もないのに教養復権だなどと言うつもりはさらさらないのだが、千の「否」の後にその可能性を問うたとして、まだ言えることがなんらかあるのではないかという気もしている。私の本棚に岩波文庫が詰まっているのかを思い返せば、それは紛れもなく時代錯誤的な教養への憧れがきっかけで、なんなら今でもある程度は後世に残されるべきと認定されたものをまずは理解せねばという態度で文学や芸術に接しているように思う。中学生の頃はともかくとして、さすがに十代も後半になれば教養主義的な態度が個性になって欲しいと願うようなナイーヴさは薄れてきてはいたものの、そうは言っても大学生くらいまではそれによって何か自分の中に残るものはあったのだろうかと考えることはあった。ケチ臭い疑問な気もするが、要するに流行りの漫画や流行りのアーティストを追いかけていた場合と比べて、何か余分に手に入れたことになったのだろうかということだ。果たして一番面白くて美しいものを鑑賞し、人より多く感動したことになるのだろうか。時代や場所を問わない普遍的な真理を学ぶことができたことになるのだろうか。あるいは人格が陶冶されたことになるのだろうか。教養への憧れからいつしか方法論的権威主義も板についてしまったのはいいものの、中々胸を張って人に説明できるような成果は何も無かったような気もする。「教養を手に入れたのだ、教養はそれ自体尊いのだ」という強弁で満足できてしまうとすれば、方法論的権威主義者がただの権威主義者に堕しただけに思われる。ニュートンは「巨人の肩のうえに乗る」と言ったが、自然科学であれば既に高く積み上がった過去の成果のうえに立って遠くを眺めることができる。一方文学や芸術の巨匠達は何を見せてくれるのかがいまひとつわからない。わからないにもかかわらず、長い間触れていると飽きるどころか文学や芸術への渇望は、まるで酔うと仕舞には酒が酒を飲むようになるように、どんどん強くなっていく。教養人を気取りたいとか、個性的でありたいとか、そういった不純物が濾過され、蒸留されていき、この渇望はより純粋になっていくようである。それはなぜなのか、この疑問の根っこの部分に文学や芸術の本質を捕まえるための手がかりが埋まっているのではないかと思っている。
(以下に続く)
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昭和の時代の流行りの本

Twitterにも書いたが、近ごろ酒を飲むと翌日の気分の落ち込みが酷い。二十代のころであっても、身体的な二日酔いと後悔や自己嫌悪のような気分の悪さはセットのようなものだったが、最近はちょっと自分でも心配になるくらいメンタルにくる。煙草にしろアルコールにしろ、身体が嗜好品に耐えられなくなるのは寂しいことだ。むしろ人生これからの方が酔うことなしに生きていくのが難しそうであるのに。

最近『限りなく透明に近いブルー』を読んでみたのは、それが理由なわけではない。先日のポール・オースターの『ガラスの街』に関する記事にも書いたが、文学と一言で言っても人によって頭でイメージするものが異なる。私は比較的食わず嫌いせずに色々読むタイプではあるものの、やはり高校生~大学生時代によく読んでいたものが(私にとって)一番文学の顔をしている。ドストエフスキーカミュのような作家を夢中で読んでいたのが最初期で、フローベールトルストイを読んでその力量に慄いたのがその次くらいだっただろうか。その他にも、ジェーン・オースティンやブロンテ姉妹が面白いとか、はたまたラシーヌの戯曲がすごいとか、ふらふらとつまみ食いばかりしていたが、やはり「古典」と言われる作品を読んでいくのが基本的な姿勢だった。だから、村上龍の本も初めて読んだ。

芥川賞の作品を追うということはしていなくて、数えるほどしか読んだことがない。柴田翔の『されどわれらが日々』については以下でも記事を書いているが、近ごろまで本当にそのくらいで『蹴りたい背中』を高校の教室で回し読みしたのは、あまり多くない清涼感のある(?)思い出のうちの一つだ。
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最近の自分の関心として、自分がどういった条件付けでこの世に放り出されたのかということを考えることが増えた。恐らく人生でどうにもならないこと、諦めなければいけないことが増えてきたからだと思う。別に自分が「華麗なる一族」の出自でないことを言い訳にして現状に文句を言おうという魂胆ではないが、両親や祖父母が生きた時代はどう語られていて、そして両親や祖父母はどれだけ「語られるに値する」ものを見ることができたのか、できなかったのか、それを知りたくなった。そもそも、「近代文学は終わった」(柄谷行人の本は、いつまでも積んであるままである)のであれば、世相を理解するために流行った文学を読もうというその姿勢自体にセンスが無いということなのだと思うが、歪みはあったとしても、まだ小説は「時代を写す鏡」であるとも思うので。

「流行った純文学」というジャンルの作品の中で、その時代で語られるに値する何かが本当に語られているのかはわからないが、そういうわけでこの頃やたらと『太陽の季節』とか『なんとなく、クリスタル』とか『限りなく透明に近いブルー』とかを読んでみている。それぞれにそれぞれの面白さはあるが、こういった作品を前にして頭を抱えた当時の選考委員達の方に共感してしまう自分もいる。

『ガラスの街』

一言に小説と言っても、少しずつ人によってイメージするものが異なると思う。多くの作品を読んできた本好き同士であっても、それまでの読書経験で形作られたそれぞれの異なる小説像があって、よくよく話してみると一方にとって当たり前なことが他方にとって新鮮であったりすることがある。時代と地域・言語の2軸で、自分がまだ読んでいない空白地帯を埋めていくように読書計画を立てて読書を進めていると、それまで自分が知らなかったタイプの小説にちょくちょく出会うことができる。そして、ひとたびその良さを認識するための「認識の枠組み」みたいなものができると、今度はその枠組みを使って過去に読んだ作品を思い返し、新しい光を当ててみることができる。

この間読んだポール・オースターの『ガラスの街』も私にとっては新しい経験で、今後の読書における「小説の読み方・楽しみ方」の道具を一つ増やしてくれた本になったと思う。この本の冒頭は「ミステリ小説作家が間違い電話に端を発して奇妙な事件に巻き込まれていく」というもので、ありがちなミステリ小説の門構えだが、中身はだいぶ異なっており、(もちろんある程度謎解き的な展開はあるものの)出来事が次々と起きて事件が発展していくというわけではなく、最終的に謎の解決にも至らない。物語の本線は最後まであくまでも細い芯として存在し、むしろその周りに意匠を凝らしたメタフィクションが幾重にも仕込まれており「物語に関する物語」が至るところで語られるという点がこの小説の面白いところだ。しかもその「語り」の中には信用できなかったり、明確でないものが混じっており、「確実に正しい話」を取り出すことが困難になっていることから、フィクションの中で宙づりにされたような感覚に陥る。手が込んだことに、作中人物が(メタフィクションが含まれることで有名な古典的作品である)セルバンテスの『ドン・キホーテ』に関する試論を展開しており、それがこの作品自体のある種の解題として機能しており、作品のメタフィクショナルな構造に対して言及がなされているなど、非常に芸が細かい。そして何よりも、この短い小説の中でこれだけのことを、読者を突き放すような難解さ無しに実現しているところに作者の非凡な力量が発揮されている。

あまりに構造のことばかり書いたため、中身は無い本なのかと思われるかもしれないが、そういうわけではなく、妻子を亡くしこれといった人生の目的もなくニューヨークで日々を送る作家の孤独や、ミステリ小説的な展開の妙など、いわゆる「中身」についても語るべきことはあるが、私個人的な経験として、小説としての形式が崩れない程度に最後まで物語の芯を残しつつ、メタフィクションの展開によって小説にボリュームが出す、ということがここまで巧みに実現し得るものなのかという感嘆がより大きかった。これまでポストモダンに分類されるような技巧的な小説はあまり読んでこなかったのだが、せっかくなので食わず嫌いはやめて色々と手を出してみようかと思っている。

ディストピア

代表的なディストピア小説と言われている、ジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年刊行)とオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932年刊行)を立て続けに読んだ。オーウェルもハクスリーもイギリス人である。『1984年』の方は世界観の設定がかなり細かく作りこまれている知的労作という感じで、第三次世界大戦後にできた3つの一党独裁国家のうちの一つを舞台として、政府各省庁の機能や国民の生活がどのように監視・支配されているかが細かく描かれている。スターリン体制下のソ連や欧州のファシズムなどを念頭においた寓話はおそらく当時はいくらでもあったのだと思うが、オーウェルは寓話を緻密に構成する想像力に加え、例えば作中のウィンストンとジュリアの束の間の恋愛など、人間を描き物語を語るという作家としての力量が抜きんでているため、単なる政治パンフレットを超える不朽の名作として今も読まれているのだと思う。
すばらしい新世界』の方は『1984年』と比較して世界の設定をよりSF要素 (架空の科学技術) に負っている作品だ。『1984年』は直接的な全体主義国家批判である(すなわち現実にある国家・制度にかなり多くを負っている)一方で、『すばらしい新世界』の方は、高度に発達した科学技術に支えられた究極の管理国家が描かれている。具体的に言うと、人口の再生産は階級毎に完全に管理され、各々の階級に属する人間は不満を抱かないような教育(洗脳)を施されており、仮に生きていく上で困難が生じた場合も高度に発達した娯楽(作品内で「感覚映画 (feelie)」と呼ばれる五感で楽しむ映画などは現代のVR・ARそのものである)や、副作用のない麻薬によって、苦痛を取り除かれる、といった世界である。物理的な制約をSF要素によって克服しているため、より抽象的な問い、すなわち「完全な技術と管理体制によって誰も一切の苦痛を感じることなく、快楽に浸されたまま自己再生し続ける人間社会は果たして是であるか?」という問いをむき出しに突き付けている。この問いをぶつける側の人間(作中の「野人」)と、「これが是である」と言う側の人間(作中の世界統制官ムスタファ・モンド)のやりとりは哲学問答とすら言え、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を連想させる。
寓話というのは設定(世界観)の理解・了解、問われている抽象的な問いの把握、そして抽象的な問いと展開される架空の物語の架橋、というステップを頭の中で踏む必要があるので体力を使う読書になるが、この二作のように巧みに書かれた寓話は、その労力に十分見合った楽しみを与えてくれる。