『居酒屋』

少し前にゾラの『居酒屋』を読み終えて、これは中々面白いなと思ってからメモ書きくらいはしておこうと思ったまま放ったままになってしまっていた。例えばトルストイの長編のような偉大な小説を読んだ直後は、その力に圧倒されて椅子の背に身体を押し付けられたまま身動きができない、というような感覚におちいることもあるが、『居酒屋』の読後感はそうでもない。物語の後半三分の二くらいを半日で一気に読み切ってしまったのだが、面白くて夢中でページをくったというより、勢いで読み切らないと途中で頓挫してしまうかもしれないと思ってあえて気合を入れて読み切った感じである。

マルセイユからパリに上京してきた主人公の女ジェルヴェーズが少しずつ不幸に飲みこまれて破滅していく様子を軸として、ナポレオン三世第二帝政下におけるパリの下層階級の生活を描いた作品だが、作中には高潔な人物はほとんど出現せず、かと言って傑物と言えるような魅力的な悪党が出てくるわけでもない。作中人物達は誰も彼もうんざりするほど卑小な人間達で、稀に彼らの中に美点を発見できたとしてもせいぜい消極的な道徳や習慣的な勤勉さ程度のものである。ユゴーのように貧しさの中に人間の真心や偉大な性質を見出すことのできるような物語も書こうと思えば書けたのであろうが、ゾラは意識的にロマネスクな筋書きをほぼ徹底的に排除している。

 『居酒屋』を読んだあとにゾラの評論集にも少し目を通したが、その中でも彼はユゴー的なロマン主義的な物語に対する対決姿勢を明確にしている。『レ・ミゼラブル』と『居酒屋』を無理矢理比べてみるとすると、たとえばジェルヴェーズも確かにわが子を愛してはいたが、ファンテーヌと違い結局は自らも酒に溺れアル中の旦那と同じように娘のナナを殴るし、ナナはナナで(コゼットとは違い)すっかりグレてしまい身体を売って小金を稼ぐ女に育つ。ジェルヴェーズと一緒にパリに上京してきてその後女をつくって蒸発したランチエは左派の思想を抱いているが具体的にやっているのは論説記事の切り抜きを集める程度のことであり、アンジョルラスのような行動力やカリスマ性の欠片もない。さらに言えばゾラは、作中人物に偉大な性質さを付与しないばかりか雄弁に語ることも許しておらず、たとえば大概悲惨なこの作品の中でもとりわけ凄惨さをきわめる場面である、ジェルヴェーズの近所に住むラリーという少女がアル中の父親からの虐待の末に衰弱して病死するところなどは、これが『カラマーゾフの兄弟』であれば、イワン・カラマーゾフがその先五十ページにわたって神を呪った演説をぶつであろうと思われるほどだが、ジェルヴェーズも既に完全な文無しで餓死寸前であり、死んだラリーに一瞥をくれるほどの余裕しかない。

ゾラは自らの小説にドラマを与えないわけだが、彼自身はそれを「科学的」であると考えていたようである。彼が規定し実践した「自然主義小説」は、言うなればパリという虫かごの中にうごめいている昆虫の観察記録のようなものである。『居酒屋』一作だけでは明らかにならないが、『居酒屋』もその一部に含まれる『ルーゴン・マッカール叢書』と名付けられた作品群全体を通して、ゾラは人間の自然的(遺伝的)条件と社会的条件によってあらわれる人間のあるがままの性質をあきらかにしようとした。現代的な観点で見れば「自然科学的」に人間社会を観察しその性質を明らかにするという考え方はかなりナイーヴに映るし、「自然科学的」であることが持てはやされ過大評価されていた時代の産物と言ってしまえばそれまでではあるが、そうは言っても少なくとも『居酒屋』は中々読ませる小説であるのもまた事実である。ゾラにしてみれば自身の規定した反ロマン主義自然主義を忠実に実践したということであろうが、「ありのままを描いただけ」というにはあまりにも力強く現実がこちらに迫ってくる。おそらくゾラの天分は自然科学者としての観察力というよりもむしろ図抜けた構成力であったり想像力であったりしたのではないかと思われるし、類稀な才能が無茶な理論を一代限りで可能にした、というのが真実に近いのではないかと私は思っている。

雑記(2022年下半期に読んだ本)

恒例となりつつある半期ごとの読書録だが、今年は良い小説をたくさん読むことができた。今年の下半期は英・米文学を中心に読むというのをテーマにしていたが、読んだのは以下の8作品。

『ミドルマーチ』(ジョージ・エリオット)(1~4)
Twitterでも何度もつぶやいているが、光文社古典新訳文庫で出ているこの『ミドルマーチ』が今年一番かと思う。ヴィクトリア朝の小説でいえば、ブロンテ姉妹やディケンズそして後に触れるサッカレーなど各々良いところはあるものの、長編小説を冗漫なものにしない構成力や人間の本性に対する冷徹な観察眼、ここぞという緊迫した場面を克明に描き切る描写力などにおいてエリオットは頭一つ抜けているように私は思う。偉い人がもっと宣伝すべき小説。
rastignac.hatenablog.com

『フラッシュ』(ヴァージニア・ウルフ
ヴァージニア・ウルフの書くものはいつも良い。飼い犬を主人公とした小説なので、気軽に読めるといえば読めるのだが、色々なところで書いているとおりウルフの感受性は異常な繊細さなので、きちんと読めば読むほど息が詰まる。

『虚栄の市』(ウィリアム・サッカレー)(1~4)
ヴィクトリア朝時代に生きたディケンズと同時代人(一歳差)だが、下~中流の庶民を描いたディケンズと異なり、サッカレーは貴族や富裕な商人や軍人といった上流階級の俗物っぷりを描くことを得意とした作家で、『虚栄の市』("Vanity Fair")も上流階級に属する、あるいは上流階級に受け入れてもらおうとする俗人達を風刺するような場面が多数出てくる。自分の読書経験の中では19世紀半ばの英国における富裕層の生活ぶりや関心事について詳細に描いたものは読んだことが無かったため、当時の風俗を知ることができたという意味で意味のある読書だったと思う。ただ人物造形の深みやプロットの緻密さにおいて、19世紀に英国や大陸欧州において綺羅星のごとく出現した近代小説の巨匠達には遠く及ばない。

ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット
ベケット?あぁ『ゴトーを待ちながら』なら読んだことがあるよ、不条理演劇ってやつだよね。」というセリフを言うために読んだことは認めねばなるまい。やっぱり私はヨーロッパ近代に完成をみたあの小説というやつこそが好きなのである。あと私は、基本的に経験不足もあって戯曲がよくわからない。いまのところ私が戯曲で心から好きだと言えるのは渡辺守章訳のラシーヌだけかもしれない。芸術への愛は訓練できるので精進したい。

怒りの葡萄』(ジョン・スタインベック)(上)(下)
月並みな言い方だが、苦難の中で生きる人間の神聖さを感じる本。1930年代の米国・中西部の大草原地帯では、入植した白人が過剰に開墾を進めたことによってダストボールと呼ばれる強大な砂嵐が発生し、多くの土地でその後農業が崩壊した。この物語の主人公一家も耕作が不可能となったオクラホマの農地を捨て、仕事があるという噂のあったカリフォルニアに一族で移住を企てるのだが、その道中やカリフォルニアにたどり着いてもなお容赦なく苦難が降りかかる。聖書の出エジプト記になぞらえられるような、絶望的な状況にさらされながらも不屈の精神で逆境に立ち向かう人間たちの崇高な姿というのがこの小説の最良の部分と言えるだろう。

重力の虹』(トマス・ピンチョン)(上)(下)
ピンチョンは『競売ナンバー49の叫び』はかなり愉快に読めたが、『重力の虹』はそれと比較にならないほど難解だと言われているようなのでかなり身構えて読んだ。実際、小説の全体像を辻褄の合った形で理解しようとすると相当難儀するが、たとえばジョイスの一部の小説のように、そもそも文意がとれない(ない)ような類の難解さではない。語られる物語が一々情報過多で、鮮明な映画のカットのような描写がバシバシと切り替わるので読んでいて疲労はするものの、結構没頭して読み進められたりする。正直なところこれをもう一回読むのはあったとしてもだいぶ先になると思うが、その前に『逆光』は買ったのでまた近いうちに読みたいと思う。

『頼むから静かにしてくれ』(レイモンド・カーヴァー)(上)(下)
村上春樹による翻訳の短編集。人並みに歳をとり、まだたそがれるには早いもののそうは言っても徐々に人生の可能性が狭まっていき、小さな失望と諦念が日々を満たしていく、という中年の危機の最中にいる自分としては、ぐさっと刺さるものが多かった。短編小説は自分には難しく、うまく頭を整理できていない。ヘミングウェイサリンジャーの短編についてどう思うか、あるいはジョイス(『ダブリナーズ』)、あるいはモーパッサンと比べてどうなのか、みたいなことをうまく言葉にできないでいる。もっと言えば、芥川や川端の『掌の小説』などはまた質的にも系譜的にも異なるのであろうが、正直なところ短い作品は仮に気に入ってもうまく記憶が持続しない。今後の課題。

ノルウェーの森』(村上春樹)(上)(下)
30代半ばにして『ノルウェーの森』を初めて読んだ。自分としても読み時を逸したので読まなくてもよいのでは?と思っていた節もあるのだが、ゆくゆくは村上作品もいくつか読みたいと思っているのでまずはこれを読むことにした。ちなみに村上春樹を読もうとちょっと思い始めたのはこれまで手薄であったアメリカ文学の作品に少しずつ触れ始めたことによる。さて、そしてこの作品だがよく言われる喪失感がどうのこうのみたいな話はピンとこない。男女限らず人の気持ちはわからないものだし、孤独への恐れや他人への執着心のようなものが若い性欲と後ろで手を組んで、他人の中に過剰な内面性をでっちあげたうえにそれを欲望する、みたいなあるある話かなと思う。無駄を削った方が美しいという規範を押し付けるとすると、脇役の女性の自殺は余計かなと思った。

以上が小説。以下は駆け足に紹介すると、人文系の本は以下のとおり。
『小説読解入門 - 『ミドルマーチ』教養講義』(廣野由美子):ミドルマーチの翻訳者廣野先生による解説本。ミドルマーチに感動した人、あるいはミドルマーチを読もうか迷っている(ネタバレを気にしない)人向け。
『小説読本』、『三島由紀夫のフランス文学講座』(三島由紀夫三島由紀夫の小説に関するエッセイ。申し訳ないが意味のよくわからないところはすっ飛ばして拾い読みした。ラディゲの偏愛ぶりは興味深い。『ドルジェル伯の舞踏会』、そこまで超すごいとは思えなかったのだが、再読してみたい。
『批評の教室』、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(北村紗衣)Twitterで何かと話題の先生ですが、少なくともこの2冊はとても面白かったのでおすすめしたい。これらの他にもう一冊積んである。
『読者はどこにいるか』(石原千秋:申し訳ないがいまひとつ。おすすめできない。この人の本であれば、だいぶ昔の本だが『大学受験のための小説講義』の方がユニークで面白い。

そして、今年の重要テーマは科学史。人間が世界を理解する方法がどのように変わっていったのかというのももう少ししっかりと理解したいというモチベーション:
『若い読者のための科学史』(ウィリアム・バイナム)、『科学哲学への招待』(野家啓一)、『科学の方法』(中谷宇吉郎)、『科学史・科学哲学入門』(村上陽一郎)、『生物学の歴史』(アイザック・アシモフ)、『進化論の進化史』(ジョン・グリビン、メアリー・グリビン)

また、科学史の本を読むにあたって大学初級の教科書を三冊ほど読み直した。こういう本を読むのは駒場にいたころ以来かしら:
『考える力学』(兵頭俊夫)、『電磁気学 I』『電磁気学II』(長岡洋介)

一般向け自然科学・工学系の本としては乱読だが以下の本を読んだ:
『がん免疫療法とは何か』(本庶佑)、『免疫の守護者 制御性T細胞とはなにか』(坂口志文)、『新しい免疫入門』(審良静男・黒崎知博)、『2030 半導体地政学』(太田泰彦)、『次世代半導体素材GaNの挑戦』(天野浩)、『地球の未来のために僕が決断したこと』(ビル・ゲイツ

冊数にして、39冊。上半期と合わせて2022年の読書は69冊。

『ミドルマーチ』

私のような海外文学を読むのが好きなだけの素人はどうしても、日本における評価や日本語訳の手に入りやすさというファクターに読書経験が影響されやすい。ロシア人が驚くほど日本にはドストエフスキー読者がやたら多いというように紹介・翻訳というフィルターがプラス?にはたらくこともあれば、世界的に高く評価されているにもかかわらず日本における読者が不当に少ない作品もあるだろう。自分の不勉強やアンテナの低さを棚に上げるわけではないが、『ミドルマーチ』は、光文社から新訳を出された廣野先生も言っているように世界的な評価と比較して日本での知名度が低い小説ということになるのだと思う。恥ずかしながら最近まで私もエリオットの名前や作品も聞いたことがあるくらいというレベルであった (ジョージ・エリオットという男性のペンネームを使った女性だということも最近まで知らなかった) ところ、この本が「アンナ・カレーニナと並び称される」と宣伝されているのを見かけて「さて本当かしらどれどれ」くらいの心持ちで読み始めたのである。

偉大な小説を読んでいると、しばしば自分が過去に読んだ他の偉大な小説の記憶が頭の中に次から次へと溢れ出てくることがある。『ミドルマーチ』はイギリス人の女性が書いた作品ということで、多くの人はなんとなしにジェーン・オースティンの作品を (読んだことがあれば) 思い浮かべながら読むだろうし、「田舎町の、結婚問題を軸にした人間関係の物語」という様に括ってしまえば近い主題を扱っていると言えなくもない。話は脱線するが、あまり単純化し過ぎると詳しい人に怒られそうだがジェーン・オースティンの作品は『めぞん一刻』にかなり似ていると私は思っていて、両者ともに限られた舞台、限られた人間関係という箱庭の中で展開される軽妙でほのぼのとしたユーモアと人間関係のドタバタ劇というのが基本だが、ここぞという場面で一気に深刻な筋書きの小説を読んでいたかと錯覚するくらい緊迫感のある人間ドラマが現れつつ、そうは言っても最後は皆が納得する結末が用意されている。ミドルマーチに話を戻すと、こちらは少し様相が異なっており、確かに舞台設定は英国の田舎の人間関係なのだが、作者による地の文章での人物描写のボリュームが大きく、その筆致も非常に鋭利である。筋書きも、決して絶望感だけ残して放ったらかすわけではないが (そういう筋書きが悪いとは言っていない) 、未来への可能性のあった高潔な人間性が些事に塗れて敗北していく様なども冷徹に描かれる。また人間性が火花を散らす重要な場面の緊迫感も一段凄まじい。似ている作品、想起する作品という意味では、複数の人間が (複数の人間関係の結び目・衝突点が)、その時代の社会という軛の中で運命づけられていく様が圧倒的な筆力で語られていく点では、まさにトルストイを読んでいる時に感じた、息の詰まるような読書経験に近い。

少し前にスタインベックの『怒りの葡萄』を読んでかなり感動したこともあって、やっぱり過酷な環境や巨悪によって人間性が轢き潰されていくような叙事詩から滲み出てくる文学ってすごいなぁという気分に振れていたのだが、そういった極端なものが仮になくとも、社会という与えられた条件の中で力の限りもがこうとする人間が見せる汲み尽くし難い様々な表情というものを、偉大な文学は見事に切り出して我々に提示してくれるのだということをあらためて実感した。

雑記(2022年上半期に読んだ本)

半年に一度の読書メモ。何を読むかについてそれほど厳密にテーマ設定しているわけではないものの、なんとなく今年はこの辺を読もう、今月はこの数冊を読もうというような方向性は持つようにしている。小説で言えば、最近は「今の自分がいる場所に近いもの」というのを一つのテーマとして設定している。戦後から現代にかけて国内で流行ったもの(太陽の季節『なんとなく、クリスタル』限りなく透明に近いブルー『JR上野駅公園口』)、また、海外の小説でも素粒子ウェルベックは初めて読んだ)や台湾文学の自転車泥棒など。三島由紀夫などのごく限られた作家を除けば、戦後から現代にかけての作品を意識的に読もうというのは自分にとっては新しいテーマで、これまで18世紀後半から20世紀初にかけての近代文学を最も好んで読んでいて、それより古いものは読んだとしても、それより新しいものの優先順位は意識的に落としていた。現代の作品は駄作にあたるリスクがあるという実際的な理由もあるけれど、それ以上に私にとって文学は、人間との、あるいは自分自身との知的距離を保つのに、あるいは想像力が羽ばたくのに必要な場所を確保するために必要不可欠なものでもあるので、自分の生きる時代・場所に肉薄しうるものはあえて避けるようにしていたというのもある。(だから三島由紀夫は読めるのだ。)ところが昨年『失われたときを求めて』を読んで、プルーストの自分の生をなんとか言葉で捕まえておこうとする必死な姿を見て以来、そろそろ自分のための言葉を探すことも考えなければいけないのではないかという気持ちになりつつある。最近の小説を読んだからといって自分用の何かが見つかるとは思っていないが、そんな問題意識のもとでのテーマ。

あとは、年初にテヘランでロリータを読む』を読んでから、もう少し英文学(英語文学)を読もうというのもテーマにしている。ヘンリー・ジェームズの『デイジー・ミラー』『ワシントン・スクエア』アメリカ文学ど真ん中を再読のものも含めてサリンジャーフィッツジェラルド、ケルアックなど(ライ麦畑でつかまえてナイン・ストーリーズ『オンザロード』グレート・ギャツビー)。またもう少し最近のポール・オースター『ガラスの街』『幽霊たち』。このあたりは、冒頭でテーマとして書いた「現代の小説」の中ですっぽり私の読書経験から抜けていてほぼ全く読んだことのない村上春樹もちょこちょこと読んでみようという計画の準備でもある。時代は少し前後するが、あとは『ダブリナーズ』1984年』すばらしい新世界も読んだ。ディストピア小説の二冊はいずれも非常に面白かった。

小説以外では、関心の高いテーマとして科学史と科学技術史(と関連する産業史)があり、このテーマでこの半年で読んだのは『科学技術の現代史』(佐藤靖)、『科学の社会史』(古川安)、イノベーションのジレンマ(クリステンセン)、『文系と理系はなぜ分かれたか』隠岐さや香)、『1000ドルゲノム』(ケヴィン・ディヴィーズ)、『近代日本150年』山本義隆)、『化学の歴史』アイザック・アシモフ)など。山本義隆科学史の本はだいぶ溜まっているのでどこかで一気に読みたいと思っている。山本義隆の本に最初に出会ったのは高校物理の『新・物理入門』だが、物理選択だった人はあれを読んだ人も多いのではないだろうか。

人文系の本だと、Twitterで流れてきて知った『ナターシャの踊り(上・下)』は迷わず買って結構すぐ読んだがこれは非常に面白かった。1703年のピョートル大帝のペテルブルク建設(ロシアの西欧化)から、1962年のストラヴィンスキーの亡命先からの一時帰国(ボリシェヴィキ革命による芸術家の亡命とその雪解け)までの250余年間にわたるロシア文化史。その他読んだ本は、谷崎潤一郎文章読本水村美苗『日本語で書くということ』『能 - 650年続いた仕掛けとは』(安田登)。

合計でちょうど30冊。冊数の目標は設定していないが、年間100冊読むのは仕事をしている限り難しそうである。

芸術に関する雑文(4)

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rastignac.hatenablog.com

論争の話に触れたが、そういえば「芸術とは何か」ということを巡る華々しい論争を現代においても追いかけることができれば、現在進行形で新たな形式が芸術が生み出される現場に立ち会うことができるはずである。しかし、今現在(もちろんそれが皆無とまでは言わないまでも)、多くの愛好家を巻き込み熱狂させるような創造の現場があるのかというと、現代では「同時代の芸術」というもののあり方がだいぶ異なってきているようにも思われる。先に言及したユゴーであれマネであれ、今日では押しも押されぬ巨匠として崇められ、その作品は古典として確立された地位を築いているが、当時は(当然ながら)「同時代的」なものだったわけである。一方現代において、近代にあったような「絵画/演劇/・・・とは何か」という議論が活発におこなわれ(そして多くの人々たちの関心を引き)、それによって新しい芸術がダイナミックに生み出されているかというと、正直なところあまり心当たりがない。むしろ昔(100年以上前の)芸術は今でも人気で、クラシックコンサートのチケットはすぐに売り切れるし、過去の名画を観に多くの人が展覧会に訪れる。他方で、いわゆる芸術性を追求した現代美術、現代音楽、現代文学の潮流を熱心に追っている人たちの数は(過去の名作の愛好家と比べ)圧倒的に少なく、同時代的な芸術は大衆の興味関心を失って「業界関係者」のみのものとなっているように見える。

このような状況を少し乱暴にまとめてしまえば、20世紀に入ったあたりから芸術は観念レベルでの自問自答をし始めたということが関係していると思う。つまり、「何を」「どのように」ということに関する革新性の追求が行きつくところまで行った結果、対象のない「純粋形式」を追い求めるような作品や、芸術の定義自体の転覆を試みるような作品が産み出され始める。マルセル・デュシャンがニューヨーク・アンデパンダン展に向けて、(既成の)男性用の小便器を横に倒して署名したものに『泉』とタイトルをつけて出品したり(結局断られたようだ)、アンディ・ウォーホルアメリカの食器洗いパッドの「ブリロ」の外箱を本物そっくりに木箱で制作しそれをアート作品であるとした例などは有名だが、これらは「そもそも芸術とは何か?」を問うためだけに「芸術」として提出されたものである。このようないわば純化された芸術の自己目的化を企図したメタな問いを含んだ作品の出現により、芸術論争は観念的な哲学論争に回収され、「芸術の定義は芸術であることである」という同語反復的な多元主義を導いてしまったようである。このような本質的な芸術の多元主義と伝統的な「趣味・嗜好はひとそれぞれ」という相対主義が人々の中で無意識に混合された結果、芸術が雲散霧消してしまっている、というのが現状ではなかろうか。同時代の芸術は、「アートワールド」の文脈を踏まえずに理解することが極めて困難なものが多く、はっきり言ってしまえば芸術愛好家の中ですら人気がない。こういった現象と、大衆を相手にした娯楽が技術の進歩や消費文化の発達に伴い益々効率良く人々の心を揺さぶることのできるようになっていることで、カビ臭い文化遺産と、物好き業界人向けの奇抜な作品と、情動ポルノとが、脈絡なく商品として陳列されているのが現代に見られる光景だろう。そう考えると近代的な美学の理屈を援用したところで、一方の極にはデュシャンの便座が鎮座しており、他方には資本主義とテクノロジーによって極めて高度に発達した(ハクスリーが『素晴らしい新世界』で描いた"Feelie"のような)大衆娯楽がある中で、芸術の普遍的な価値を擁護するのは簡単ではないようにも思う。(続く)

芸術に関する雑文(3)

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審美的な判断力ということに関して、大学生の頃に初めて能を観にいった時に少し考えた(というほど大層な話ではなく、ぼやっと感じたという程度だが)ことがある。小さい頃にもしかしたら課外学習的な何かで観に行ったこともあったかもしれないが、記憶している限りではその時がきちんと能を観た初めての経験だった。流派や演者は残念ながら覚えていないが、場所は千駄ヶ谷国立能楽堂で、能の演目は「半蔀」だった。少しは予習をしておかないと楽しめないと聞いていたので、能のごくごく基礎的な知識と「半蔀」のだいたいの筋書きだけ頭に入れて臨んだのだが、感動した・楽しかったというよりも、何か新しいものを経験したぞというじわっとした興奮が残ったのを覚えている。予備知識なく能を観て面白いと思うことはまずないだろうし、初心者の知識では(他に数多ある舞台芸術と比較しても)感動することは簡単でない。能面や衣装は確かに美しいし、謡や楽器(笛や小鼓、大鼓)の調べにも引き込まれるものがあるが、それにしてもある程度受容する側に準備がないと視覚的・音楽的な快適さすら、おそらく感じることは簡単でない。玄人ぶって「気負わず虚心坦懐に観れば自ずと美しさもわかる」などと言う人もいるが、それはその人が必要な認識の枠組みを既に持った上で気楽に・自由に観られるようになったに過ぎないだろう。詞章と呼ばれるセリフをある程度覚えておかないと、何を言っているかはわからなくなるし、何を言っているかがわかったところで筋書き自体決して波瀾重畳というわけではない。能が完成したのは観阿弥世阿弥の頃、つまり14世紀室町時代だが、演目の多くは源氏物語伊勢物語平家物語など下敷きにしているそれ以前の古典作品があり、それを知ったうえで想像力を働かせる必要がある。筋書き・役柄にしても感情を表現する所作にしても極度に簡略化・類型化されており、あまりに形式が洗練されているがゆえに、内容はほとんど退化し、ほとんど無内容にすら見えることもある。しかし、「中身」の少なくない部分を観る側の想像力と知識に任せることによって、洗練された形式の美しさが純粋な形で立ち現れてくるということがこれほどわかりやすく感じられる芸術も他に中々無いだろう。その当時私は、これが美しいということなのだとすると、おおよそ芸術と呼ばれるもの本質の大部分はもしかすると、その内容にあるのではなく、それ自体が目的化したような合目的性なのではないかというようなことを考えたのを覚えている。

大学生の頃は(正直なところ今も)哲学書がどうも苦手だったのであまりきちんと勉強したことがなかったのだが、どうやらそのようなことは(もちろんもっときちんとした形で)哲学者のカントが『判断力批判』の中で定式化しているらしいということはだいぶ後になってから知った。曰く、美とは目的なき合目的性である、ということだそうである。人間の作ったもののうち、いわゆる道具(たとえばナイフ)であれば、特定の目的(ものを切る)に適った形や機能をもつが、言い換えれば客観的な目的のある合目的性を有しているが、美しいものは何らかの目的に依存して存在しているわけではない。特定の目的はないが、我々は対象に対して「ふさわしい」「意に適っている」という印象をもつことがあるが、それこそが美しいということだと、そうカントは規定した。特定の目的はないのに、合目的性の形式だけはあるというのが「目的なき合目的性」のおおまかな意味だが、その規定に従って考えれば、たとえば特定の情動を喚起することを目的とするような娯楽コンテンツ(「泣ける映画」、「笑える漫画」など)は特定の目的に資することが期待されているため、(少なくとも純粋な意味での)美しいものではないということになる。このような考え方を頼りにしながら芸術とは何かということを整理してみるとすれば、(言葉や絵や音楽や映像といったような)完結した様式の中で、人間や世界の在り方を模倣し、あるいは人間の内面にある情熱や苦悩を表現し、それがそれ自体でなければならないような、他の形であってはならないのだというような充実感を持っていること、とでも書き下すことができるのではないだろうか。

先に例を挙げた能などは650年間ものあいだ大きく変わらず存続しているが、一方で永久不変なものとして鎮座しているのではなく、激しくそのあり方が変転してきたものもある。むしろそういったものの方が多いだろう。これまで古典的な芸術作品の受容を通じて普遍的な眼を培うという話と、芸術とは特定の目的を持たない合目的な表現であるという話をたどたどしくしてみたが、そのような観点で芸術史を眺めると、合目的的な形式である芸術はその形式を巡る闘争の歴史であることが見えてくる。形式を揺るがし、変容させ、観る人間に新たな認識の枠組みを与えるような、そのようなものが「新たな古典」として生み出されてきたのが見て取れる。能のように観阿弥世阿弥の時代から大きく形を変えず純化されていったものももちろんあるが、文学、演劇、絵画、音楽などあらゆる分野において、表現形式を巡る闘争が見られ、形式を揺るがし発展させたものが芸術史の中で不滅の作品として残っている。ヒュームのいう「エリート批評家による品質保証」というのは、批評家が静的な「人間本性」に照らした品質保証を請け負っているというよりも、ある作品が、既存の芸術の形式に対してどのような意味を持つのかを問い返す役割を担っているという方が(ヒューム以降の芸術史を見ても)より正確だろうと思う。近代以降は特に「芸術には創造性が必要である」というイデオロギーに駆動される形で様々な形式の破壊と発展がおこなわれており、ぱっと思いつく有名なものとしては、フランスの文豪ユゴーがフランス古典悲劇の伝統的形式を戯曲『エルナニ』によって否定した「エルナニ戦争」や、同じくフランスの画家クールベが、なんでもない片田舎の埋葬の風景を宗教画や歴史画が描かれるような巨大な画面に描いた『オルナンの埋葬』をパリ万博から出品拒否されたことを契機に(史上初めてとされる)個展を開いて写実主義を主張した「レアリスム宣言」、あるいはやはりフランスの美術業界に一大スキャンダルとして登場したマネの『オランピア』などが華々しい芸術論争を巻き起こしたものとして挙げられる。「~論争」というような派手でスキャンダラスな形をとらずとも、芸術は常にその表現形式が問い返されそしてそれに応えてきたという人間の長大な営為であって、芸術を鑑賞し楽しむことはそれを追体験することでもあるだろう。
(以下に続く)
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芸術に関する雑文(2)

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そもそもの問いと立て方として、岩波文庫のような「権威あるコンテンツ」を他の(サブカルのような)コンテンツとを対立させることからして意味がないのではという考えもある。文学作品や、あるいはクラッシックのコンサートや美術館の展覧会や古典芸能などのいわゆる「高尚な芸術」も、流行りの漫画やアニメ、SFやミステリ小説、テレビドラマや映画など数多あるコンテンツの一種であって、そこに区別や対立を見出さない人も多い。境界線をどこに引くかという問題もあるし、境界があったとしても、ものによっては時代とともにそれを越境してくるジャンルもある。いったんは(曖昧なゾーンはありながらも)そういった区分自体は存在するとしても、消費の場においてはそれらは雑多に並置されていることも多い。デジタルコンテンツではそれが顕著であるし、本屋に足を運んでもそうだ。であれば「なんとも言葉にし難い文学や芸術の本質」みたいな掴みどころのない話をするのではなく、真正面から「権威ある文学や芸術は娯楽コンテンツとして一級品なのである」と言えばよいではないかとも考えられるし、実際に文学や芸術を担う当事者達の中にはそういった趣旨の発信をする人も多い。出版社や書店が本心からそう思っているのかは分からないが、いわゆる古典的な文学作品の本の帯にも「予測不可能な驚愕の結末」だとか「究極の愛の物語」といったようなまるでテレビドラマの宣伝のようなキャッチフレーズが付けられて売られているのもそのためだろう。しかしとりわけ娯楽コンテンツが高度化している現代において、例えば少年ジャンプに連載されるような人気の漫画や何百億円という金額の予算をつぎ込んだNetflixのドラマを押しのけて、ドストエフスキー夏目漱石の小説が娯楽として一級品だと言うことはできるだろうか。そもそも「娯楽として優れている」とは何かという話ではあるが、それがどれだけ効果的に多くの人の喜怒哀楽の情動をかき立てることができるかという程度の話であるとすると、巧みな筋書きにしても、生き生きとした描写にしても時代を超えた技量はあり得るものの、時代や場所を隔てた物語を追うことのちょっとした(作品によっては多大な)困難さが情動の喚起を妨げてしまう。漱石の小説も当時は朝日新聞という一級のメディアに連載されるような優れた娯楽コンテンツとして読まれたことは確かだが、それでは、それぞれの時代と場所において感動を多くもたらしたものが「不朽の名作」として芸術の中に席を与えられるということが結論でよかったのだろうか。文学や芸術における名作群は過去に成功した娯楽コンテンツのアーカイブあるいはアンティークコレクションのようなものに過ぎないというのであれば、現代においてそれらを愛好することはせいぜいニッチな懐古趣味といった程度の話である。実際そのように整理して理解している人も多いだろう。

先に教養を崇める態度が「時代錯誤」で「没個性」と見られ得るという話をしたが、仮に古典とされる作品に「流行り廃り」を超えた永遠性があるのだとすれば、それらを尊ぶ態度が時代錯誤だという批判も失当に思えるし、それらに「蓼食う虫も好き好き」を超えた人類にとっての普遍的価値があるのであれば、没個性という批判も問題にならないだろう。しかし、文学や芸術における永遠性・普遍性は、それが仮に存在するにしても、少なくとも娯楽としての優劣とは必ずしも関係が無さそうであることは既に述べたとおりである。それでは「面白い」「泣ける」「ドキドキする」というようなこと以外に、どういった特徴が芸術作品に見出されているのだろうか。もちろん作品と言ってもそれが文学なのか(詩なのか小説なのか)、絵画なのか、演劇なのか、音楽なのかによって、評価基準は必ずしも同じではないだろうが、あえて広く芸術を一括りにして話をしたときに、たとえば美しい文体、美しい物語、美しい絵、美しい音楽、というように、美しさという判断基準は一つの共通の性質として挙げられると思う。そうは言ったところでそれでは問題を「美しさとは何か」という疑問にすり替えただけにも思われるが、具体的な作品に関して(それが妥当であるかは別として)「これは美しい、これはそうでない」という判断は日常的におこなわれている。そういった審美的な判断が妥当であるためには何が必要なのだろうか。ものの価値が分かった「趣味の良い人」というのはどういったものの見方をする人間のことなのだろうか。

過去の書物を紐解いてみると、このようないわゆる「趣味の問題」というのは現代的な問題というよりもむしろ近代(18世紀の欧州)において盛んに論じられたことのようである。市民社会が急速に発達していった当時の欧州では大衆がアクセスできる図書館や出版物、劇場、音楽会などの文化的インフラが続々と整備され、それまでは芸術といえばもっぱら芸術家とそのパトロン(王族・貴族)によって担われるものであったところが、その主導権が徐々に市民の手に移行しつつあった。作品の良し悪しの判定者が公衆となったことで「良き趣味とは何か?」「どのような基準で芸術作品は判定されるべきか?」という問題が人々の関心事として論じられるようになり、『人間本性論』で有名なイギリス経験論哲学を代表する大物哲学者のヒュームも「趣味の基準について」という短いエッセイの中でこの問題を取り上げている。「この絵は好きだ」とか「この小説は気に入った」といったような好みは人それぞれであって、他人の趣味にとやかく口出しをする権利は誰にも無いという常識的な考えがある一方で、過去から今に至るまで膨大に積み上げられ定着した諸作品への審美的判定が全くランダムなものかというとそれも直感に反する。ヒュームはこの二律背反に対して、ホメロス叙事詩のように時代や言語、風土や宗教などの違いを超えて人々が美しさを認める作品の存在に触れながら、こういった古典の受容を通してこそ「人間の本性」に基づき普遍的に価値のある芸術作品の判定ができるようになると述べている。もう少し詳しくヒュームの言っていることを見てみると、彼は古典とされる過去の芸術作品を受容し学ぶことによって、自らの置かれている歴史的・社会的文脈に特異的なものの見方を排した普遍的な眼を持つ「人間一般」として芸術の価値を判断する能力を培うことができると述べており、そういったエリート批評家こそが良き趣味の守り手を担うことができると考えている。またさらに、そういった普遍的な判断基準を持ったうえで、眼前の作品を鑑賞するにあたってはその場所その時代におけるコンテクストに自らを置きいれる必要があるとも言っている。言い換えれば、優れた批評家は個別性と普遍性を行き来することができ、そういった知的活動の中で人間の自然本性的な普遍性を見出していくということである。

自分が芸術を鑑賞するときの見方を思い返してみると、当然ながらヒュームの言うエリート批評家には及ばないにしても、自分の置かれた時代や場所と全く異なる環境で生み出された古典作品を多く触れることで、おそらく人間一般にとって普遍的に重要であろうことや、美しく感じられるであろうことがおぼろげながら像を結び、自分の中で「あれはよい、これはよくない」の判断基準になりつつあるということは感じられる。ただそれはあくまでも自分が触れた作品の範囲内で作り上げられたものであるし、もちろん自分の生まれ育ちによって形づくられた嗜好にも左右されているとも思われるため、それを人間一般に妥当する普遍的なものと言い切るまでの自信はいまひとつない。ひとまず場所や時間を超えた作品を立体視し、具体性と普遍性の知的な行き来をすることが「普遍的な眼」を持つのに必要なことは一旦認めるとして、それではその人間が本来持っている普遍的な眼とはどういった眼なのだろうか。普遍的な美的判断力とは何に美を見出すことなのだろうか。
(以下に続く)
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