芸術に関する雑文(1)

だいぶ前になるが、Twitterでとあるアカウントが投稿した、岩波文庫で一杯の本棚の写真が「つまらない本棚だ」と皆に酷評されていた。岩波文庫は数ある日本の文庫レーベルの中でもとりわけ歴史が長く、また収録されている作品も文学的評価の定まった作品ばかりである。最近パンデミックの最中にアルベール・カミュの『ペスト』が新訳で収録されたことが話題になったが、特に20世紀以降に書かれた作品はかなり文学的評価が確立された作品であっても収録されていないものもある。ちなみに私も岩波文庫赤帯が詰まった本棚を持っているので、例の本棚が不評であるのを見て正直なところ心穏やかではなかったが、一方でそれをつまらないと言う人たちの言わんとしていることもわかる。専門書の類であれば、それぞれの分野で評価の定まった必読書を正しい順で読んでいくことに異論のある人はいないだろうが、それが文学となると少し違いそうだ。どのような小説を好んで読むか、もっと広く言えばどのようなコンテンツを好んで消費するかはその人の個性をあらわすものであって、権威ある必読書一覧の踏破が目的となっているような人は没個性で退屈な人間だと思われても無理のないことかもしれない。あるいは、とうの昔に流行りの過ぎた岩波的教養主義がいまだ人の関心を引くと思っている滑稽な時代錯誤の方が鼻につくかもしれない。そんな人を追い詰めるとすれば、一方から「自分でコンテンツを選び取ることのできない没個性性」をあげつらい、他方から「時代錯誤的な教養主義が個性足り得ると思い込んでいることの滑稽さ」を指摘すればよいだろう。しかし、そうは言ってもそれでは個性的で現代的な・同時代的なコンテンツ選びとは何かと問われた時に、せいぜい相対主義的・多元主義的価値観というセーフティーネットのうえでしかこねられない臆病な理屈しか出てこないのだとすれば、ナイーヴな権威主義者の方をむしろ擁護したい気持ちにもなる。私自身に大した教養もないのに教養復権だなどと言うつもりはさらさらないのだが、千の「否」の後にその可能性を問うたとして、まだ言えることがなんらかあるのではないかという気もしている。私の本棚に岩波文庫が詰まっているのかを思い返せば、それは紛れもなく時代錯誤的な教養への憧れがきっかけで、なんなら今でもある程度は後世に残されるべきと認定されたものをまずは理解せねばという態度で文学や芸術に接しているように思う。中学生の頃はともかくとして、さすがに十代も後半になれば教養主義的な態度が個性になって欲しいと願うようなナイーヴさは薄れてきてはいたものの、そうは言っても大学生くらいまではそれによって何か自分の中に残るものはあったのだろうかと考えることはあった。ケチ臭い疑問な気もするが、要するに流行りの漫画や流行りのアーティストを追いかけていた場合と比べて、何か余分に手に入れたことになったのだろうかということだ。果たして一番面白くて美しいものを鑑賞し、人より多く感動したことになるのだろうか。時代や場所を問わない普遍的な真理を学ぶことができたことになるのだろうか。あるいは人格が陶冶されたことになるのだろうか。教養への憧れからいつしか方法論的権威主義も板についてしまったのはいいものの、中々胸を張って人に説明できるような成果は何も無かったような気もする。「教養を手に入れたのだ、教養はそれ自体尊いのだ」という強弁で満足できてしまうとすれば、方法論的権威主義者がただの権威主義者に堕しただけに思われる。ニュートンは「巨人の肩のうえに乗る」と言ったが、自然科学であれば既に高く積み上がった過去の成果のうえに立って遠くを眺めることができる。一方文学や芸術の巨匠達は何を見せてくれるのかがいまひとつわからない。わからないにもかかわらず、長い間触れていると飽きるどころか文学や芸術への渇望は、まるで酔うと仕舞には酒が酒を飲むようになるように、どんどん強くなっていく。教養人を気取りたいとか、個性的でありたいとか、そういった不純物が濾過され、蒸留されていき、この渇望はより純粋になっていくようである。それはなぜなのか、この疑問の根っこの部分に文学や芸術の本質を捕まえるための手がかりが埋まっているのではないかと思っている。
(以下に続く)
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