『失われた時を求めて』

失われた時を求めて』は大学生のころに一度挫折している。それも第一篇「スワンの家の方へ」の第一部「コンブレー」を読み終えたところで早々に頓挫した。昨年岩波文庫から吉川先生の新訳が出てフェルメールの「デルフトの眺望」をあしらった美しい化粧箱入りの全14巻を購入したことをきっかけに、10年ぶりにあらためて再度アタックを試みたところ案外読み進めるのが苦ではなく今年の頭からコツコツ読み進めて今日漸く読み終わった。10年越しのリベンジが意外とスムーズだった理由はいくつかあると思っている。
一つは読書時間の使い方に対する意識の変化で、学生当時はこの長い長い小説を何カ月もかけて読むのは時間が勿体ないと思ってしまった。読まなければいけないと思っていた未読の小説が山ほどある中で、数カ月分の可処分読書時間を『失われた時を求めて』だけに使うことに抵抗があった。学生の間に名作をなるべくたくさん読み切らねばという気負いというか焦りみたいなものがあったため、『失われた時を求めて』は当然読むべき名作のリストには入っていたものの、もっと手早く読める他の作品で数をこなしたいと思ってしまっていた。大学院を卒業して10年経った今はいわゆる必読書のような小説は(まだまだ未読のものはあるが)それなりの作品数を既に読めているし、また案外働き始めてからも自分が諦めなければ読書は楽しめることを知っているのでそこまでの焦りはない。なのでじっくり腰を据えて一年間かけて読み進めることに抵抗はなかった。
二つ目はこの作品が扱っているコンテンツとの相性。この小説が扱っているテーマは極めて多岐に渡っているが、やはり芸術に対する執着心のようなものがあると大いに楽しめる。もっとも、若いころに芸術への関心が薄かったかというとそうではないが、芸術が生きるために必要だと衒いなく自然に思えるくらいに芸術に触れ考えを巡らすには私にはもう少し時間が必要だった。絵画に引き込まれた経験、折に触れ頭の中で流れる音楽、建築物に息を呑んだ瞬間、作家への敬愛、そのような記憶のストックがある程度の分量ないと、プルーストが同じようにそれらを取り出して文章にしてみせることへの関心を維持できない。
三つ目はより広く人生経験的な話で、恥ずかしいような自分の気持ちや過去の行動も含めて丹念に復元していくことの価値は、おそらく若すぎると理解できない。自分が抱いた感情、とった行動、考えたことが自分の確固たる所有物でなく、時間の経過によって失われ、変容し、手から零れ落ちていくものだという実感、取り返しのつかなさへの気づきがあって初めて、プルーストが生涯をかけておこなった彼の記憶の復元に価値を見出すことができる。プルーストのような、言ってしまえば金持ちのブルジョアで病弱で引っ込み思案なマザコンに感情移入するような読み方はできない。そんな彼のであっても幼少期から彼が五感と思考で経験したことの本質を見事に復元したとすれば羨ましいことであるし、彼が復元した陶片の中に、自らが経験したことと似た紋様を見出すことができる。20代の人にとっては、マザコンブルジョワなどよりも、材木屋の倅のボナパルティストの方が感情移入しやすいだろう。
語り手の記憶とそこから引き出される想念とが数珠つなぎになって延々と続いていくようなこの小説を読んでいると、自分の記憶にもすっと手を触れられたような心持がすることがある。父や母やに抱いていた感情、まだ形にならない異性への恋、芸術作品に触れたときの戸惑いなど。世紀末のフランスのブルジョワの回想であるのに、どうして自分でも忘れていた心の中を探られるような気持になるのか。プルーストに偉大な感情はないが、あまりに詳細かつ膨大にそれが続くために、時と場所を超えた読者にもどこか懐かしい気持ちを起こさせる。そんな経験をできる作品も中々他に無いため、文学を愛する人間としては読んで良かったと思う。