雑記(2021年上半期に読んだ本)

小説は今年は『失われた時を求めて』を読み終えるまでは他に手を出さないと決めているので岩波文庫版でコツコツと読み進めている。昔ちくま文庫で挫折したのだが(つまり私の家には『失われた時を求めて』が2セットもある。)、岩波文庫の方は注記がわかりやすく丁度半年で7巻まで読了したため、年末までには全14巻読み終えるペースである。感想は読み終えたところで年末にでもゆっくり書き残したいと思う。が、既に同書に関する関連書籍を5, 6冊仕入れてしまっているのでそれらを読もうと思うと2022年も半ばになりそう。

メモを見返すと他には仕事に関連して読んだ書籍を除いて以下のような本を読んでいた。

『偶然と必然』(ジャック・モノ―)

遺伝子発現の制御に関するオペロン説や酵素のアロステリック調整などの発見で有名な、高校生物の教科書でもお馴染みのノーベル賞学者、ジャック・モノ―の科学に関するエッセイ。東大の佐藤直樹先生が『40年後の「偶然と必然」』という本で詳解しているのを最近本屋で見つけたのでそちらと合わせて精読したいと思っている。生命とは何かというトピックは最新のものから、モノ―のようなレジェンドの書いたものまでなるべくカバーしたいと思っている自分の中の重要テーマ。

『精神と物質』(利根川進立花隆

先日亡くなったジャーナリストの立花隆によるインタビュー。利根川進ノーベル賞を受賞した直後から彼の周りにむらがってくる普通の新聞記者があまりにも不勉強で鬱陶しいのでちゃんと勉強しそうな人から長めのインタビューを受ける、ということにしたというのがきっかけでできた本とのこと。利根川進が上記のモノ―なんかをはっきりと意識していた分子生物学者(免疫学者でなく)ということは不勉強であまりピンときていなかった。インタビュー通して感じたのは、重要な発見をする人は、「重要な発見をしなきゃならない」と思っているものなのだな、という感想。本の中でも揶揄されていたが、特に生物学だとAという種で発見された仕組みがBという種でもありました、でも一応論文にはなるわけだが、あまり意義はないだろう。

『探求する精神』(大栗博司)

一流の物理学者による半生の回想録。似たような憧れや問題意識や好奇心を持っても、搭載している脳みそのスペックが違うとこれだけ見えてくる景色に差が出るのだなと落ち込む本。面白いのですけれどね。

『科学を語るとはどういうことか』(伊勢田哲治・須藤靖)

体系だった科学哲学の教科書ではなく自然科学(物理学)の研究者が科学哲学の専門家に議論・疑問をぶつけていくというもの。 この手の議論はもっと雑なレベルで大学生の頃にもよくしたものだけれど、科学についても哲学についても知的体力不足によって自分の中でケリのついていないテーマである。勉強すべきことは多い。

『西洋美学史』(小田部胤久)

美術史ではなく美学史。美しいとは何か、芸術とは何か、という問題は私の中で一、二を争うくらい長年の思考テーマ(の割に判断力批判を通読していないのだが)。プラトンから始まり、現代のダントーらまでカバーされており教科書としてとても優秀。

『美学』(小田部胤久)

上記の姉妹本。専らカントの第三批判である『判断力批判』の解説に重点が置かれた本。カントの理路を正確に追い切ることが私の目的ではないものの、曲解しても仕方ないのでこの本などを使いながら第三批判ときちんと向き合うべきかと悩んでいる。

詩学』(アリストテレス

美学に関連して。悲劇や喜劇、叙事詩に関して、その構成や内容がどうあるべきかなどをアリストテレスが整理したもの。これもあまり厳密に追うつもりはないがこれで「ミメーシス」という言葉を心置きなく使える…だろうか。

『近代絵画史(上)』(高階秀爾

 だいぶ昔に一度読んではいるのだが、カラー版が出ているのに気付いたため買いなおしたついでに再読中。外国の美術館に行きたくなる。

 『哲学入門』(バートランド・ラッセル

これは読みやすいので、さらっと読めばよいのだが、ラッセルは『西洋哲学史』や『数理哲学入門』を読まないと、という話。そしてまず哲学に関してはきちんと純粋理性批判を読まなければという長年の宿題を後回しにし続けている。

『集合への30講』(志賀浩二

集合・位相の勉強をしてみたいと思い立って、教科書を買ってみたもののとりあえず取っつきやすい本から読もうかと思い手を出してみた。数学は雰囲気だけじゃ意味ないので教科書を読もうと思う。

エマニュエル・トッドの思考地図』

軽いエッセイ。頭の良さにも色々な種類があるのだという本。フランス人の学者の割に哲学が嫌いというのが面白かった。あとこっそりブルデューを馬鹿にしている(自明な結論のためにデータ集めをしているので仕事がつまらないとのこと)。ディスタンクシオンは美学との関係で読むべきか、と悩んでいるものの長いので購入すらしていない。

小説を入れて全部で18冊。実は今年の上半期は仕事がかなり多忙で体力的に厳しかったものの、うまく時間を見つけて読書の時間を取れたほうだと思う。

雑記(2020年下半期に読んだ本)

投稿が読書記録ばかりになってしまっているが、この半年で読んだ本のメモ書き。

  • 『会社はこれからどうなるのか』(岩井克人)
    岩井克人先生といえば『ヴェニスの商人資本論』が有名だが、そちらは家の書棚になかったので、書棚にあったこちらを読んだ。「会社は誰のものか?」という古くて新しい問いに丁寧に答えることを試みた本。ここ数年のコーポレートガバナンス改革の活発な動きとそれに呼応したアクティビストと呼ばれるヘッジファンド等の動向は実務家の私にとっても直接的に関係のあるトピックではあるが、目先の対応や個社の戦略論から一歩引いて理論的に考察するための枠組みも持っておきたい分野。
  • Reimagining Capitalism in a World on Fire, Rebecca Henderson
    著者はハーバード大学ビジネススクール所属の経済学者で長年ビジネスがどう環境問題や社会問題の解決に貢献できるかという観点での研究を続けている。資本主義のあり方の見直しやESG重視のトレンドはこの2, 3年特に勢いを増している印象であるが、その中でもとりわけ昨年のBusiness RoundtableステートメントやBlackRockの公開書簡は話題を呼んだ。日本では冷笑的な人も多いが、確かに人権問題にしても環境・社会問題にしても、搾取するだけ搾取しておいて自分たちの血まみれの手を見てはじめて「国際的ルールを作ろう」と恥ずかしげもなく言い始める面の皮の厚さは相変わらずだと思う一方で、人様に散々迷惑をかけながらもトライアル&エラーを繰り返して人類を前に進める姿勢は大したものだとも思う。こういったリーダーの資質というのは血の染み込んだ土壌からしか生まれないものだろうかと思うし、悔しいけれども人類を良くも悪くも前に進めているのはこういうエネルギーであろう。
  • 『まぐれ』 (ナシーム・ニコラス・タレブ)
    昔読んだ『ブラックスワン』とやたら似ているなと思ったが、どうやら『ブラックスワン』より前に書かれた本なようで、読んでいる途中で気づいた。彼の本は、読んでいるときは、ほうなるほどと思い読むのだが、読み終わると何の話であったか忘れてしまう。ビジネスの場で大真面目に語られる迷信に近いセオリーを馬鹿にして笑い飛ばす、みたいなところは読んでいて痛快なのだけれど。ヘーゲル嫌い、リチャード・ドーキンス好き、など読書の好き嫌いがちょっと面白かった。
  • 死の家の記録』(ドストエフスキー
    ストーリーなどあってないようなものであるにも関わらず面白い。 ドストエフスキーの一冊目や二冊目に読む本ではないと思うが、彼のルポライター的才能と何より実際にシベリア流刑の実体験にもとづいており中々読ませる作品である。
  • 『夜の果てへの旅』(セリーヌ
    長らく読もうと思っていてようやく読めた。独特の語り口、スピード感覚の小説で決して読みやすい小説ではないが、不思議と愛着を抱いてしまう作品。主人公のバルダミュは世界に幻滅しており始終罵言を吐いているが、高尚な絶望から抽象的な虚無に至るのでなく、底辺生活の腐臭と幾度か訪れる別れの切なさの中に生きている実感を見出しているように見え、そこが読者に愛着を抱かせるところのように思う。
  • 灯台へ』(ヴァージニア・ウルフ
    ウルフは『ダロウェイ夫人』をだいぶ前に読んで、正直なところどういった書かれ方をした小説で何が面白いのかというポイントはほとんど忘れてしまっていたのだけれど、今回『灯台へ』を初めて読んでかなり驚いた。筋書きはほとんど無いに等しく、ラムジー家とその周りの人々の日常の出来事が登場人物の内省とともに語られていくだけであるが、作者の鋭敏な感受性と繊細な表現は本書のどこを読んでも漲っておりどの一節も退屈でない。人間が正気を保つことのできるギリギリにまで感受性を高めた時に書かれることのできた文章。
  • 『曾根崎心中・冥途の飛脚・心中天の綱島』(近松門左衛門
    まずはあらすじを理解したいと思い現代語訳のついているものを読んだ。人形浄瑠璃を観に行きたいと思っている。
  • 『五つの証言』 (トマス・マン)
    敬愛する渡辺一夫先生による翻訳。『魔の山』などで有名なノーベル賞作家トマス・マンが亡命先で第二次世界大戦に突入するドイツひいてはヨーロッパ全土に対する警鐘として書いた文章四篇、それを紹介するアンドレ・ジッドの文章一篇の翻訳を『五つの証言』としてまとめたもの。渡辺先生はこれらの文章を「空襲警報の合間に」、仮に自分も含め全国民が本土決戦に巻き込まれることになったとしても必ずや戦後に生きる人間達の糧になると信じて翻訳をした。翻訳の経緯を1945年8月15日を回想しながら書く(仏文の恩師である)辰野先生への手紙もまた渡辺先生の学知と人柄がよく表れている。渡辺一夫先生の本は、『フランス・ユマニスムの成立』や『痴愚神礼賛』の翻訳と解説、ラブレーの『ガルガンチュア物語』、『パンタグリュエル物語』の翻訳・注釈など、学生時代に最も好んで読んだものの一つだったが、恥ずかしながらこの『五つの証言』は知らなかった。
  • マックス・ウェーバー』(野口雅弘)
    中公新書の新刊で目に付いたので脈絡なく買ってみた。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を学生の頃に読んだときにとても面白かったため、一時は『職業としての政治』や『職業としての学問』、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』などを立て続けに読んでいた時期があった。この読書記録からもわかるように、彼の宗教社会学の主著には手が出ていない。
  • パラサイト・イヴ』(瀬名秀明
    私やもう少し上の世代で中高生のころに生物学に関心があった人は読んだことのある人が多いのではないだろうか。私も昔高校の生物の先生に勧められた微かな記憶がある。SFミステリ(ホラー?)小説のカテゴリーに入るのだと思うが、生物学・医学に関連する描写が正確であるため「玄人ウケ」するSF、というような捉えられ方をしていたと思う。ストーリーの基になっているのは、真核生物の細胞の中にあり、エネルギーの産生を司るミトコンドリアという細胞内器官は、元々外から真核細胞に寄生し共生してきたのであるという(おそらくは正しい)学説である。そのミトコンドリアが反旗を翻し、宿主である我々を乗っ取ろうとする・・・というそんな話。
  • Economics for the Common Good, Jean Tirole
    ノーベル経済学賞受賞者のジャン・ティロール氏による一般向けの経済学の本。経済学者の中でも多産かつ幅広い領域で成果を上げている人のようで、本書のトピックも社会政策への提言の部分だけとっても環境問題や企業統治、金融市場、競争政策やイノベーションについて経済学の観点から丁寧に論じており非常に勉強になる。日本語訳も『良き社会のための経済学』という題名で出ている。
  • The Vital Question -  Energy, Evolution, and the Origins of Complex Life, Nick Lane
    これは別途内容を整理してみたいと考えているが、生命科学の本で久しぶりに面白いものに出会った。生命はどう始まり、どう進化したのか。基本的な生化学、化学熱力学、分子生物学の素養がない読者には少し難しいかもしれない。
  • 『大学数学ことはじめ』 東京大学数学部会
    私が駒場にいたころはこういう平凡な学生向けの導入本は存在しなかった気がするぞと思い、手に取ってざざっと目を通して読んでみた。各基本分野の見取り図を思い出すために。
  • 『続 解析入門』(ラング)
    上半期にミクロ経済学の教科書を読んでいた時に多変数関数の微積分は当然出てくるわけだが、せっかくなのできちんと復習しようと思い立ったので。教科書を読んで、章末問題を解いて、というのは楽しいものである。基本的なことが取っつきやすく書かれており、私のような数理系バリバリでない人間でも読める。せっかくgradとかdivとかrotとかを思い出したのでこの勢いで電磁気学の教科書をきちんと読んでみようかと思っている。

雑記 (2020年上半期に読んだ本)

自分がどの本をいつ読んだのかというのは意外とすぐに忘れてしまうので、読書記録がてら、簡単に2020年の上半期に読んだ本について書きたいと思う。そういえば大学生の頃は今は懐かしのmixiにブックレビューを載せていたから大体いつ何を読んだのか記録できていたが、ここ10年近くは残っていない。基本的に私は空いた時間は常に何かを読んでいるタイプの人間だが、同じ分野の本を集中的に読んでいると飽きてしまうので、ジャンルは結構バラバラである。

  • 『日本語で読むということ』(水村美苗
    水村美苗氏の本は以前に『日本語が滅びるとき』をとても面白く読んだが、こちらの『日本語で読むということ』は短いエッセイ集のようなものでだいぶ肩の力が抜けた文章が多い。著者は、漱石の文体をコピーした『続明暗』や『嵐が丘』の日本版を書かんとした『本格小説』などの秀作を世に出した作家として知られているが、10代の頃に米国に渡って以来、大学院まで米国で過ごしYale大学でPaul de Manのもとでフランス文学を研究している。彼女がYale在学中に一時同大学でも教鞭をとっていた加藤周一と交流があったようで本書の中でも何度か登場するが、こういった知識人との思い出、みたいなものは羨ましい。私は加藤周一の最晩年、駒場の900番講堂で平和について息も絶え絶えに語る彼を遠くから眺めることしかできなかったが、生きて話す彼を見たということを、私は老人になってからも人に自慢するだろう。水村氏の生涯を特徴づけている、明治期の文豪らによる優れた日本語への懐旧の情も、本書に書かれている加藤周一との思い出話のような昭和の知識人への憧憬も、昭和末期生まれの私にとってそう切実な問題でなく、アナクロニズムへのアナクロニズムに過ぎないだろう。ただ、昭和末期~平成初期に生まれた世代に共通の記憶であろう、時代意識の耐えがたい希薄さも、この数年の世界情勢を見ると贅沢品になりつつあるように思えて胸騒ぎがするのも事実である。
  • The Plague, Albert Camus
    アルベール・カミュの"La Peste"の英訳(邦訳『ペスト』)。東京で新型コロナウイルスの緊急事態宣言が出るより少し前から『ペスト』がやたら売れていると何かの記事でも読んだが、私も家にある英訳版に手を付けるには丁度よいタイミングと思い読み始めた。アルジェリアの港町Oranにペストが流行し町が封鎖されるという話で、ペストとの不屈の戦いを続ける医師Rieuxを語り手として、容赦なく命を奪うペストとの闘い、封鎖された都市に閉じ込められた人間の連帯と抵抗が淡々とした語り口で綴られる。『異邦人』でこの世界は不条理であると説いたカミュナチスによる欧州の蹂躙、パリの占領を前に連帯と抵抗を一つの答えとして提示しようとした。語り手のRieuxの他にも聖職者のPanelouxや新聞記者のRambert、Oranに偶然訪れていたTarrou下級役人のGrand、Grandの隣人のCottardなどの作中人物らが、各々の状況や信念に基づき災禍をどう受け止めるかが描かれる。
  • The Outsider, Albert Camus
    せっかく『ペスト』を読んだので、勢いで『異邦人』も久しぶりに英訳で再読した。中学生の頃、新潮文庫のマスコットキャラクターのパンダ(Yonda君)のお導きに従って片っ端から海外文学を読んでいたが、短い小説だしとりあえずと軽い気持ちで読んだものの何故これが世界的な名作と言われているのかさっぱりとわからなかった。そういえば大学一年生の頃、仏語の先生に「カミュのL'Etrangerは単純過去時制をほとんど使わないから(文法の勉強が終わっていない)今でも読める」と唆されてフランス語で読み始めたものの半分ほどで放り出したこともあり、個人的に挫折の思い出が多い作品である。やたら(批評家が「零度」だの「白色」だのと言っているように)無色透明な書き方をしていることも手伝って、「不条理の哲学」などと言われてもどうしてそもそも主人公のMeursaultがこうも生に対して無関心であるのか中々正体を掴むことが難しいが、戯曲の『カリギュラ』や『シーシュポスの神話』と合わせて読むと比較的簡単に補助線を引かれるのでそちらも合わせて目を通しておきたい。しかし、以下でも触れるが、『カリギュラ』は今どこかの出版社で日本語訳は出ているのだろうか。今時、いい本でもすぐに絶版になってしまうので、中身のない見栄と言われるのかもしれないが、かつての昭和の文学全集ブームも捨てたものではなかったのではないか。
  • カミュを読む: 評伝と全作品』(三野博司 )
    日本のカミュ研究者が、タイトル通りカミュの生涯とともに全作品をなぞった本。カミュは人気の割に中々いい本が見つからないなと昔から思っていたところ漸く発見した。カミュは私の読書遍歴の序盤から結構好きな作家で、新潮文庫で安く手に入る『幸福な死』、『異邦人』、『ペスト』あたりの小説と、哲学エッセイ『シーシュポスの神話』を読んだところで、収録されている戯曲の『カリギュラ』が読みたくて新潮世界文学のカミュ全集の第二巻を買った。お金が無くて困っていたあの頃に4,500円の本を買うのはだいぶ勇気が要ったが、amazonで調べてみたら古本が20,000円で売られていたので良い買い物だったのだろう。あとはカミュサルトル論争として知られる『革命か反抗か』も新潮文庫で読めるが、論争のもととなった大著『反抗的人間』はやはり上述の全集でしか読めない。正直なところ『反抗的人間』は同時代人でもない限り中々通読できる代物ではないように思うが、その内容はとりあえずおいておいても『革命か反抗か』に収録されている『A.カミュに答える』というサルトルカミュをコテンパンに叩きのめした論文で発揮されるサルトルの論戦巧者ぶりは目を見張るものがあり、サルトルにちょっと憧れて駒場図書館の閉架から『シチュアシオン』を引っ張り出して拾い読みしていた時期もあった。話を標題の本に戻すと、カミュは学者でもなければ、哲学者でもなく、また彼の生きた時代が戦争と政治的混乱のさ中にあったこともあり、エッセイにしても戯曲にしても小説にしても、うまく時代背景や彼自身の人生に関する知識で補ってあげないと意図を汲みとりづらいことがある。そのため、本書のように彼の生涯と一つ一つ作品を丁寧に紐解いてくれる本は大変有難い。
  • 『新エロイーズ』(ジャン・ジャック・ルソー
    書簡体の恋愛小説。ルソーは確か社会人になってすぐの頃に『人間不平等起源論』を読んでなんだかやたら読みづらい文章書く人だなと思って以来避けていたのだが、18世紀の書簡体の小説という意味でラクロの『危険な関係』を読んでおいて『新エロイーズ』を読んでいないのも片手落ちかと思い読んではみたが、やはり文章がくどくて疲れた。欧州の批評家などが書いたエッセイなどでサン・ブルー(主人公の男の名)の名が出てきてもピンとこないのは癪だという気持ちだけで読み通した感はある。『危険な関係』はテレビのサスペンスドラマ的なちょっと下世話な好奇心で読み進められるが、こちらは徹頭徹尾クソ真面目なのでそうはいかない。とはいえ、通読してみて感じられる、この小説にみっちりと書かれているような徳や家族や階級といった宗教・社会規範の中で悶え苦しむ人間と、規範を失い何を選び取ってよいかわからなくなったことでかつての権威あった規範の劣化コピーのような薄っぺらい価値観に結局は縛られるいまどきの人間のコントラストには考えさせられるものがある。
  • 巨匠とマルガリータ』(ミハイル・ブルガーコフ
    奇才や奇書という言葉も疾うに陳腐化しているので使うのも憚れるが、混沌とした物語が溢れ出てくる本書のような小説を読むとそう評したくなる。本筋の舞台は革命後のソ連・モスクワ。キリストを処刑したポンペイウス・ピラトゥスの葛藤の物語を描いたが内容が反革命的であったことから出版が儘ならず原稿を自ら燃やしてしまい精神病院に入院している「巨匠」とその愛人マルガリータが主人公であり、また、この本筋とキリストを処刑したピラトゥスの物語が平行して進んでいく。そもそも冒頭から悪魔が出てくるし、その悪魔が巻き起こす様々な事件、黒魔術のショーやそれによるモスクワの騒乱など荒唐無稽な話が次々と続き、また随所にソビエト社会への風刺が効いた箇所もあり読んでいて飽きない。ブルガーコフは彼の戯曲の愛好者であったスターリンと知己であり、そのお陰もあり劇場の仕事を得ていたものの、スターリンの権力が増し粛清の嵐が吹き荒れるようになってからは彼の作品も当局の検閲を逃れることはできず多くの作品が出版禁止となった。この『巨匠とマルガリータ』も彼が亡くなった年の1940年には書き上げられていたが、作品が世に出るには1966年まで待たねばらなかった。自由に作品を公表することができなかったブルガーコフの生涯は精神的な苦難の多いものであったが、『巨匠とマルガリータ』は陰鬱な小説ではなく、作家の非凡な想像力によって極彩色に染め上げられている。
  • 『日本の文学』(ドナルド・キーン
    ドナルド・キーン氏は有名な日本文学研究者だが、氏の本を読むのは初めてだった。(日本文学をよく知る)西洋人から見た日本文学を論じた本というのは数が少ないだろう。もともと氏の『正岡子規』が読みたくで本を物色していたところこんな本も出していたのかと知って読み始めた。万葉集に始まり、芭蕉近松門左衛門、そして明治から昭和にかけての作家について。

【社会科学系】

  • Capital in the Twinty-First Century, Thomas Piketty
    フランスの経済学者Thomas Pikettyの"Le Capital au XXI Siecle"の英語訳。世界中で話題になり、日本でも『20世紀の資本』という題で邦訳されてよく読まれた本である。どうやら最近映画化されたらしいが、18世紀後半以降のデータをまとめて経済格差を論じるこの本をどう映画化したのかは観ていないので定かではない。本書は所得や資産のデータが不完全ながらもなんとか手に入る18世紀後半以降の欧米を主に扱っているが、このくらいの長期間で眺めてみると、戦後復興という極めて特殊な政治経済事情の延長である現代、そしてその延長の発想から抜け出ていないことによる問題が浮き彫りとなっている。ちなみに19世紀の社会状況を説明するにあたり、バルザックジェーン・オースティンの作品が具体的に参照されているのも面白い。バルザックの作品群は、いわゆるsocial ladderを昇るのだという気負いを私に植え付けた意味で個人的にも思い入れのある作品だが、若いRastignacが弁護士として身を立てるというよりも、社交界への出入りをパリとの「戦い」の手段として選んだ当時の社会状況が、経済的格差という観点で浮き彫りになるところは非常に興味深かった。
  • Capitalism without Capital - The Rise of the Intangible Economy, Johathan Haskel and Stian Westlake
    こちらも『無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体』という題で日本語訳が出ている。「産業構造の高度化」という言葉はよく聞く言葉であるが、では一体それが何を意味するのか。かつての、有形資産(工場や機械など)への投資によって利益を生み出すという経済活動が主であった世界から、研究開発やブランド、ソフトウェア、ノウハウへの投資に軸足が移った現代において、企業の在り方、制度の在り方はどう影響を受け、そしてどう変わるべきであるのかを論じている。ちなみに本を全て読む時間がない(英語のわかる)人はこちらで著者らが1時間程度でエッセンスについてわかりやすく語っているのでおすすめしたい。
    https://www.youtube.com/watch?v=V0mhgsyXn9A
  • ミクロ経済学の力』(神取道宏)
    教科書。学生時代、自分は経済学部でもなかったこともあり、特に目的もなく初学者向けのミクロ経済学の教科書を読んで、ちょっとわかったような全然わからないような、面白いような面白くないような、という気分で放り出して以来、恥ずかしながら真面目に勉強してこなかった。どうやら初学者向けの経済学の本は数式がなさすぎて雰囲気しか分からないらしいということで、中級者向けの本を読んでみようと思い立ったところ、評判のよい学部生向け教科書にたどり着いた。他の教科書をろくに知らないので比較はできないがとても良い本だと思う
  • 『リスク』(上・下巻)(ピーター・バーンスタイン
    ニューヨーク連銀や投資顧問会社の設立など、金融実務の世界で一流の成功者である著者が、統計学・確率論、そして金融理論の発展史を描いたもの。前半はパスカルやベルヌーイ、ガウスなど誰もが知る数学者の話から、マーコビッツポートフォリオ理論やブラックショールズモデルなどの金融理論の生い立ちやその影響を史実として描きだしており非常に面白い。
  • 『IGPI流経営分析のリアル・ノウハウ』
    ツイッターで誰かが紹介していたので読んでみたが、内容は忘れてしまった。それなりに面白かったような気もするのだが、恥ずかしながら昔から私はこの手のビジネス書を読んでも内容があまり頭に入らない。そういえば本題と関係ないのだが、この本もそうであるように、実務家と学者・評論家、ジャーナリストと学者・評論家とような敵対図式をチラチラと見せるような著者は多い。双方共に、おそらく他方に傷つけられたり苛立たされたりすることもあるのだろうが、対立に無用なエネルギーを使うことには感心しない。せっかく賢いのであれば、勉強を厭わず、人間の相互理解可能性の方にチップを置き続けて欲しいと思う。

【自然科学系】  

  • 『自己組織化と進化の論理』(スチュアート・カウフマン)
    学生として生命科学には足を突っ込んだことがあることもあり、いまでも関連分野の書籍にはたまに目を通したりするが、とは言っても教科書や論文の類でなく一般向けに書かれた本ばかりである。先日、教養学部の金子先生が『普遍生物学』という本を出され、その前の『生命とは何か』と合わせて読もうと買い込んだのだが、新しい本を読む前にそういえば十年も前に『自己組織化と進化の論理』を買ったまま積んでいたことを思い出し、まずはこちらを読もうということで読み始めて漸く読み終わった。自分の関心についてはシュレーディンガーの『生命とは何か』あたりから始めて整理してみたい気もするがまたの機会にする。
  • 『ウイルスプラネット』カール・ジンマー
    人気のサイエンスライターが書いたウイルスに関する一般向けの本。分量も少なく生物学の教育を受けていなくても読めるように書いてあるので、コロナ蔓延で興味を持った方向けによいのでは。元々この本を買ったのは『大腸菌』という同著者の本が分子生物学のよくまとまった一般書で面白かったため。

『日はまた昇る』

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外国での思い出と言われて思い浮かぶものは人それぞれなのだろうか。私の場合、頭に浮かぶのが酒場の記憶であることが多い。酔っている時、周りの世界と自分が薄いガラスで隔てられていて、自分の見ている光景や聴いている音が他人事のように感じられることがある。それほどしばしば訪れない外国の街での酩酊の記憶は特に、その薄いガラスの向こうで鮮度を失わずに保存されている。『日はまた昇る』の舞台は冒頭の四分の一くらいはパリ、残り大半はスペインのフランス国境にほど近い街パンプローナだが、主な登場人物はアメリカ人とイギリス人であるため、そこでは彼らは外国人であり、そして大抵の場面で酒を飲んでいる。『日はまた昇る』はヘミングウェイ最初の長編小説で、彼が1920年代にカナダのトロント・スター紙の特派員としてパリで過ごした時期に書かれているものだが、作品の舞台設定や作中人物の出自、風貌、性格などには、彼自身がモデルになっている主人公のジェイク・バーンズをはじめとし、実在のモデルが存在する。ヘミングウェイは「自分のよく知っているものを書くべきだ」というようなことを色々なところで言っているが、この小説後半で物語の中心を為すパンプローナの闘牛も彼が生涯通して愛したものの一つで、『日はまた昇る』の直接的なモチーフとなったのは彼の三度目のパンプローナ滞在である*1。この小説が書かれた1920年代は「狂騒の20年代 (Roaring Twenties)」と呼ばれ、米国では第一次世界大戦の戦時経済からの急速な復興と大量消費社会の幕開けを背景に大衆文化が花開いていた。同時に大戦を契機に米国とヨーロッパの経済的・文化的な紐帯がより強固になり、また欧州各国の通貨に対して米ドルが強くなったことも背景に、特にパリには多数の米国人が渡航・滞在した。『日はまた昇る』はLost Generationという言葉と共に紹介されることも多いが、アメリカ人女性著作家ガートルード ・スタインが、ヘミングウェイらのような第一次世界大戦の経験*2を経て既存の価値観に幻滅し、享楽に溺れた世代の若者をそう表現したことがもととなっている。ヘミングウェイがガートルート・スタインのもとを訪れた頃には既に作家そして美術評論家・蒐集家としての名声を博していた彼女のサロンには当代随一の芸術家が集っていた。ヘミングウェイが晩年に着手し没後に出版されたパリ時代の回想録である『移動祝祭日』*3 にも当時の様子が描かれているが、この頃のパリにいたのはピカソマチスのような画家ら、T・S エリオット、ジャン・コクトーヘミングウェイフィッツジェラルド、ジェームズ・ジョイスのような詩人・作家ら、実に錚錚たる顔ぶれである。ガートルード・スタインの著作は今日の日本ではよく知られているとは言い難いが、彼女がその生涯で交流した天才達との思い出は、『アリス・B・トクラスの思い出』という自伝*4 にも、第二次世界大戦後も含めたより長期間を対象として詳しく綴られている。20年代のパリに関しては2011年に公開されたウッディ・アレンの『ミッドナイトインパリ』という有名な映画があるが、この映画はパリに憧れるアメリカ人で小説家志望のシナリオライターが彼の婚約者とパリに旅行に訪れた際に、真夜中に散歩をしていたところ1920年代のパリにタイムスリップし、ヘミングウェイをはじめとする芸術家らと交流するというおとぎ話だ。当時パリに実在した人物らが再現されており(配役も実際の人物に似た俳優達が選ばれている)、この映画を観たときに私は「黄金時代へのノスタルジー*5」というテーマくらい、創作の才のない好事家の妄想の種として残しておいてくれればよいものをと思ったものだが、憧れの天才達がひしめくパリのこの素晴らしい時代に自分も生きていたら、そしてその一員として創作活動ができたら…という空想を炸裂させた映画で、文学・芸術を愛する人にとってはたまらない趣味映画だろう。

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日はまた昇る』では戦争は描かれない。ヘミングウェイ第一次世界大戦や、その後のスペイン独立戦争をはじめとして、戦争の直接的な描写を軸とした長編、短編を複数書いているが、この作品において描かれるのは自堕落に酒を飲んで過ごす男女であり、その狂騒はパンプローナの夏の祝祭、Fiesta de San Ferminで頂点に達する。描かれる人物達は戦争に傷つけられた世代と言えるが、とりわけ主人公のジェイクにはその傷は戦争での負傷による性的不能という形で刻印されている。ジェイクは彼の負傷を「滑稽」("what happened to me is supposed to be funny") だと自ら語るが、その滑稽な負傷は、もう一人の中心的な登場人物ブレット・アシュレーによって滑稽さ以上の意味を持たざるを得ない。ブレットは34歳のイギリス人で、第一次大戦には看護師として参加し、戦争中に赤痢で恋人を失った。貴族のアシュレー家に嫁いだため、作品中でもLady Brett Ashleyと呼ばれることもあるが、離婚調停中であり、離婚が成立すればスコットランド人のマイク・キャンベルと結婚することになっている。ジェイクとは戦争中に出会い、その後パリのダンスホールで再会するが、夜遊びの相手を放り出してジェイクの泊まるホテルに明け方押しかけるなど、しばしば彼に対する依存症的な愛を示す。この小説にあえて乱暴なあらすじをつけるとすれば、ブレットという奔放な女を巡る男達のいざこざ、とでも言えるが、たとえばジェイクの友人であるユダヤアメリカ人のロバート・コーンは、パリでブレットに一目惚れし、のちにブレットが彼とスペインのサン・セバスチャンに旅行に出かけるという気まぐれを起こしたために旅行の後もブレットに執着し、嫉妬心から彼女の周りの男と暴力沙汰を起こす。小説の半ばに、ブレットはジェイク、マイク、コーン、そして友人の作家ビル・ゴードンと共に祝祭のパンプローナに闘牛を見物しに行き、一週間続く祭りの間にこの英米人の一行は闘牛士ペドロ・ロメロと知り合う。この19歳の闘牛士に惹かれたブレットは彼と関係を持ち、祝祭期間が終わると同時に駆け落ちするが、結局「うぶな少年をダメにしてしまう悪女になりたくなかった」とペドロと早々に別れ、旅先のマドリードにジェイクを呼び出し、自分は「とてもみじめ」だとジェイクにこぼす。小説はこの二人が気を取り直して街の見物に向かう車の後部座席に並んで座る二人の短い会話で締めくくられる。

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日はまた昇る』の登場人物はみな人生の目的を持っているようには見えず、物見遊山に出かけたパンプローナで酒に酔い、恋愛のいざこざに興じるばかりである。この小説はジェイクの一人称の視点で書かれているため、語り手は全能でない。全能でないどころか、語り手であるジェイク自身の心の中さえも克明には描かれない。フランスやスペインではあくまで外国人であるジェイクにとって、パリのダンスホールやカフェも、パンプローナの祝祭も彼のものではないし、男性機能を失った彼は、「失われた世代」の仲間達が溺れた享楽にも、スペインの太陽のもとで燃え上がるブレットの情熱にも触れることができず、狂騒の真っ只中なかにありながらこの世界を他人事のように眺めざるを得ない。そして一方で、情熱の女であり、美しく自立した女であるブレットは、その情熱と気まぐれの向くままに男達を渡り歩いているが、それでいて心から信頼しているのは肉体的に結ばれることのないジェイクだけのように見える。彼女は、ジェイクとは結ばれ得ないという哀しみから手当たり次第男と関係を持つのか、あるいは誰と寝ようともついてまわる空虚さから逃れるために傷ついた傍観者であるジェイクに救いを求めているのか、それは必ずしも明白でない。ヘミングウェイは小説の冒頭にガードルート・スタインの"You are all a lost generation"という言葉とともに、旧約聖書の伝道之書(コヘレトの言葉)の一部*6を掲げているが、「世は去り、世は来たる」「日はまた昇り、そして没する」と続くこの一節は、戦後の虚無感の中で無軌道に生きる作中人物達と、悟ったようにそれを見つめるジェイクの様子に通ずるものがある。ヘミングウェイが戦後のexpatriate達の中に見たものは、極端に切り詰められた状況説明と心理描写、短く淡々とした台詞の連続、そして時折素晴らしく描き出される美しい自然といった、ヘミングウェイ独特の文体によって、見事にあらわれている。
祝祭に向けて盛り上がっていく登場人物の騒ぎは、その終わりとともに凪ぎ、最後にはブレットとジェイクの静かな会話だけが残る。この物語は"We could have had such a damned good time together." ―"Yes," "Isn't it pretty to think so?"(「あたしとあなたとだったら、とても楽しくやっていけるはずなのに」―「そうだな」「そう考えるだけでも楽しいじゃないか」)というバルセロナでの二人の会話で終わるが、ブレットがジェイクに確認するかのように語りかけた、あり得たかもしれない時間と、それへのジェイクの優しい肯定で締めくくられるこの小説の中に、傍観者ジェイクが"The sun also ariseth, and the sun also goeth down"(「日はまた昇り、そして没する」)という悟りに至る物語を見るのか、"Vanity of vanities. All is vanity."(「空の空、いっさいは空である」)*7から救われようとするブレットの物語を見るのか、あるいはガードルート・スタインが無責任に名付けたある世代の再生の物語を見出すのか、それは自由であろうし、ヘミングウェイはそのための余白を十分に残している。

目を通した本の紹介
Ernest Hemingwey The Sun Also Rises
アーネスト・ヘミングウェイ日はまた昇る』(新潮文庫
アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(新潮文庫
ガートルート・スタイン『アリス・B・トクラスの自伝』
旧約聖書 「伝道之書」 / Holy Bible "Ecclesiastes"

*1:パンプローナにはPaseo Hemingway(「ヘミングウェイ通り」)と名付けられた通りもある。

*2:ヘミングウェイ赤十字の一員として第一次世界大戦に参加し、北イタリアで負傷している。

*3:「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日なのだから」、という有名な一節で知られる回想録。この時代のパリでの生活や交友関係、そして最初の妻のハドリーとの想い出の期間を綴ったもの。自分の不倫が原因で離婚しておいてノスタルジーに浸るのも身勝手な気もするが、ヘミングウェイは晩年この本を書くにあたって30年前に別れた妻に当時のことを思い出すために電話をしたという。

*4:ガートルード・スタインは同性愛者でアリス・B・トクラスというのは彼女のパートナーの名前である。この自伝自体は冗漫なゴシップ集のような本で読んでいてやや退屈。

*5:ちなみにgolden age thinking(黄金時代へのノスタルジー)というこのテーマはさらに手が込んだ構造になっている。タイムスリップした1920年に唯一出てくる架空の人物は、ココ・シャネルに憧れて服飾をパリに学びに来たというアドリアナだが、彼女はジョルジュ・ブラックやモディニアーニ、ピカソらの芸術家の愛人である(あった)という設定であり、主人公のギルとも恋に落ちる。彼女は「ベルエポック(「美しい時代」。19世紀末から第一次世界大戦勃発までのフランスで文化が花開いた時期。芸術で言えばいわゆる印象派が活躍したのもこの時代)が黄金時代であり、自分もその時代に生まれたかった」というのが口癖だったが、彼女はギルと一緒に1920年代のパリを散歩をしていると1890年代にタイムスリップする。憧れの「ベルエポック」にタイムスリップし、そこでドガゴーギャンロートレックにも邂逅したアドリアナは「私はベルエポックに残る」とギルに告げ、二人は別れる。ベルエポックを代表する大家であるドガゴーギャンが「ルネッサンス期と比べると今の時代には想像力がない」と嘆くのを聞いたギルは"golden age thinking"が何処にも導かないということを悟り、アドリアナと共に1890年に残るのではなく、現代に戻ることを選択する。

*6:One generation passeth away, and another generation cometh; But the earth abideth forever...The sun also ariseth, and the sun goeth down, and hasteth to the place where he arose...The wind goeth toward the south, and turnerh about unto the north; it whirleth about continually, and the wind returneth again according to his circuits. ...All the rivers run into the sea; yet the sea is not full; unto the place from whence the rivers come, thither they return again

*7:旧約聖書 伝道之書 1-2。『日はまた昇る』の冒頭にある引用はこの直後から。

雑記

芥川賞受賞作品は滅多に読まないのだけれど、柴田翔の『されどわれらが日々』(1964年受賞) は読んだことがある。最近読み返したわけでもないので筋はほとんど忘れてしまったのだが、昨日ふと読後感だけ思い出した。ゲーテの『ファウスト』の講談社文芸文庫の訳者はその柴田翔で、彼の翻訳はとても気に入っている。彼は東大の工学部に進学したもののその後文学部のドイツ文学科に転学し、そのまま作家・ドイツ文学者になった。自分は理系で入学してそのまま理系の学部を出たけれど、駒場にいるあいだなど特に、文学以外やりたくないと心の中で駄々をこねていた時期もあったので、実際に転学してその道で一定の成功を収めた彼をかっこいいなと思っていたりしていた。とは言え私は転学するわけでもなくそのまま大学院まで進み、なぜか今はサラリーマンとしてあくせく働いており、普段はろくに本も読めないというありさまなので、もはやうらやましがる資格もないし、今も昔も変わらない自分の節操のなさにたまに悄然とする。犬のように働くことは、科学や文学への憧れも執着も能力も凡人並であったという不愉快な事実を忘れるにはちょうど良いし、偏執狂になりたくともなることができない生来のバランス感覚は仕事におおいに役立っていると思う。結局なるようにしかならないのだろう。

『されどわれらが日々』は50年代、六全協 (日本共産党の方針転換。武力による革命の放棄。) を経験したインテリ学生らの青春群像劇、とでも要約されるのだろうけれど、正直なところ学生運動の背後にある思想やらなんやらはあまり私の興味を引かなくて、あぁそういうのが流行った時代なんですねと思うくらいだったが、やたらセンチメンタルなのは作者の若さゆえのなんとかということで差し引いても、全体に染み渡る理屈っぽさはなんだか滑稽というか興味深いなと思った記憶がある。理屈っぽく語ることがクールだった時代に青春を描くとこうなるんだなという薄っすらとした感想である。例えば主人公の男とその婚約者の女は最後、女が自殺未遂をした後に婚約を解消して別れるのだが、分厚い手紙で説明されるその女の動機もいかにも「理屈」で、いやそんなことで人間死にたいとか別れたいと思わないでしょう、と突っ込みたくなる。「結局僕の死は自然死です。人間思想だけで死ねるわけではないのですから」みたいなことを書いた太宰治の言葉の方が幾分かよく理解できるし、あの手紙に並べられていた理屈よりも、寝ている女の口元から覗く歯の汚れがたまらなく嫌で縁を切った、みたいなことを書いた永井荷風の方が人間関係の機微をよほどよく描けているとも思う。荷風は玄人の女性としか遊ばなかったというからそれはそれで一面的な気もするけれど。

ここまであたりが確か読んだ時に感じたことだったと思う。なのだが、あらためて考えてみると、死んだり別れたりする理由が理屈の人間が存在してもおかしくはないし、そういう人間がいるのであれば、またそういう人間の類型が語るに値するのであれば、理屈に導かれるような小説がより現実を描き出すのにふさわしいこともあるのかもしれない。柴田の『されど…』は60-70年代の若者のバイブルだったようだが、その当時は私が学生をしていた2000年代半ばよりも遥かに思想のうねりは大きく、この小説はそれに飲みこまれ漂流した若者への鎮魂歌になったのだろう。この小説で描かれるのは当時の日本人のごく一部に過ぎない東大の左翼学生だが、理屈の得意な彼らが時代の様相をよくあらわしていたからこそ、このような小説も流行ったのだろう。だとすると、筋書きを観念にはめ込んだような小説に対して私が感じる反発は、自分には理屈が少し得意なことくらいしか取り柄がないのに、自分の生きる時代はそういったタイプに象徴されるような時代ではないということへの嫉妬というか八つ当たり的な感情の裏返しだったのかもしれない。理科の教科書にも歴史の教科書にも国語便覧にも自分の名前が載らないことがいよいよはっきりしてきた中年の入り口に立って、語られるべき時代の語られるべきタイプの人間ですらなかったのかもしれないということまで消化しなければいけないとすると、また週明けからあくせく働く必要がありそうだ。

『赤と黒』

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赤と黒』は高校生の頃、授業中机の下に文庫本を隠して夢中で読んだのを覚えている。退屈な授業ほど読書に専念できたのでむしろ楽しみにしていた。本に関しては物持ちがいいので15年ほど前に読んだ文庫本そのものをパラパラとめくりながら書いているが、なぜ16歳か17歳かの頃にこの本を手に取ったのかは思い出せない。国語便覧の海外文学の章に紹介されている作品を片っ端から読んでいた時期なのでたいした理由はなかったのだろう。読み始めた理由は覚えていないが、夢中になった理由は覚えていて、主人公のジュリアン・ソレルの優れた頭脳と、高潔で繊細な心、俗物への軽蔑と、目的のためならば偽善者となることを厭わない野心に魅せられたからだが、そんな主人公が才覚と野心で出世と上流階級の女を手に入れる物語に夢中になるのは、十代の少年にとって珍しいことではなかったのだろうと思う。もちろん、優れた主人公による立身出世と恋の物語ならば、おおよそどの時代どの場所にも心をくすぐる凡百の創作物を見つけることができるだろうが、読者のスノビズムを差し引いてもなお、『赤と黒』には読まれる価値が十分に残るのではないかと思う。

作者のスタンダールは『赤と黒』や『パルムの僧院』の最後に"To the happy few" (「少数の幸福な者たちへ」) と書いたり、自分の作品は1880年または1930年にならないと評価されないだろう (スタンダールは1842年に死んでいる) と言ったりと、自分の作品はごく少数の読者、あるいは後世の読者にしか評価されないと思っていたようである。作家のサマーセット・モームが『世界の十大小説』の中で言っているように、自分の作品は後世にこそ認められると信じて死んだ作家や芸術家は数多くいるが、実際にそうなった例は少ない。スタンダールはその意味で数少ない例外の一人で『赤と黒』にしろ『パルムの僧院』にしろ、特に同年代で文豪としての名声を確立していたバルザックの作品群と比べても同時代に高く評価されていたとは言い難いが、今では『赤と黒』や『パルムの僧院』は近代小説の祖として不滅の地位を築いている。日本でもスタンダールを専門とするフランス文学の研究者は少なくないし、また小説家の中では大岡昇平が熱心なスタンダリアンとして知られており、彼の評論は『わがスタンダール』というエッセイ集にまとめられている。それ以前には、有名な谷崎潤一郎芥川龍之介の文学論争 (『饒舌録』と『文芸的な、余りに文芸的な』) の中で谷崎は英訳版を読んだという『パルムの僧院』を面白い作品の例として挙げている*1谷崎潤一郎が『パルムの僧院』について書いたとおり、また本人も、ルソーのような凝った文体や、当時フランスでもよく読まれていウォルター・スコットのような描写の多い文章は書きたくないと言っている*2 ように、スタンダールの文体は簡素で、また細部にわたる長々とした描写や仰々しい口ぶりの冗漫な語りがなく、物語はスピードと緊張感をもって進展していく。

スタンダールは『赤と黒』に「1830年代史」という副題をつけたが、1830年というのはフランス史の中でも特に重要な年で、七月革命によってシャルル10世復古王政が打倒された年である。『赤と黒』の舞台はその前夜、つまり復古王政のフランス社会を描いたもので、七月革命は描かれない。七月革命は文字通り七月に起きた政変だが、『赤と黒』の出版は同年の十一月であり、言わば執筆を歴史が追い越した形となった。スタンダールは『赤と黒』の第一部十三章で「小説、それは道に沿ってもち運ばれる鏡である」という言葉を掲げているが、この小説が映すのは、先に述べたとおり王党派貴族と修道会が復権し閉塞感が支配する復古王政のフランス社会である。この作品はレアリズム小説と分類されることもあるが、人間の情熱や理想を飾り立てた文体で表現したロマン主義に対して、簡潔な文体で社会の根底にある現実を描き出したことによってそう呼ばれる。フランス革命という社会の大変革とナポレオンという不世出の天才による欧州の席捲に対する反動の時代がルイ18世シャルル10世と続く復古王政だが、大革命とナポレオンによって辛酸を舐め、さらなる革命に怯えた「王よりも王党的」な貴族と聖職者が、言論を監視し、選挙権を制限し、自由主義者を迫害した時代である。ナポレオンの世のように平民が勇気と才覚によって取り立てられうる時代ではもはやなく、『赤と黒』の主人公に残されていたのは聖職者として成り上がることだけだった。題名の『赤と黒』の由来については諸説あるが、赤が軍服、黒が聖職者の僧衣を象徴しているというのが通説である。

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赤と黒』の主人公、ジュリアン・ソレルはフランスの小都市ブザンソンの郊外・ヴェリエールの貧しい製材屋の息子である。彼は色白の華奢な少年で製材屋の力仕事には役に立たず、本ばかり読んでいたため父親や兄から疎まれ虐待されて育った。ジュリアンにはナポレオンのイタリア遠征への従軍経験を持つ親戚の老軍医正がおり、この老人の影響でジュリアンはナポレオンの戦況報告集や『セント=ヘレナ日記』、そしてルソーの『告白録』を彼の聖典として読書に耽る少年時代を過ごしていた。軍人として成功するという野心を胸に秘めていたジュリアンであったが、ナポレオン失脚後の社会において軍人としての栄達を望むことはできないと悟り、聖職者として出世することを決心する。優秀な頭脳を持つジュリアンは町の司祭から聖職者としての手ほどきをうけると、ラテン語新約聖書を丸暗記するほどの才覚を見せ、彼の神童ぶりはヴェリエールの町に知れ渡り、その噂を耳にしたヴェリエールの町長レナール氏がジュリアンを彼の子供らの家庭教師として雇うことになる。レナール氏は地位と財産を鼻にかける見栄っ張りの俗物であり、王政復古によって町長の立場を手に入れた急進王党派である。そもそも彼がジュリアンを家庭教師として雇ったのも、彼のライバルである貧民収容所の所長であるヴァルノ氏がノルマンディー産の駿馬を手に入れたことへの対抗意識からだった。レナール家で住み込みの家庭教師として生活し始めたジュリアンはその家に集う「金持ちども」への憎しみと軽蔑を抱きながらも、敬虔な聖職者の卵として立ち振る舞い、燃えるような野心もナポレオン崇拝も隠して過ごしていたが、レナール夫人とのふとしたやり取りをきっかけに、上流階級の女を手に入れるのが自分の義務だと考えるようになる。夫人はブザンソンの資産家の娘であったが、夫レナール氏は夫人が将来相続する財産にしか関心を持っていない。男はみなレナール氏やヴァルノ氏のような下品で地位や金にしか興味のない生き物だと思っていた夫人は情熱的な恋愛を知らないまま若い母親となったわけだが、最初は貧しくひ弱な青年に対する同情心のはずが、やがてジュリアンの誇り高さと大胆さそしておそらくその美貌から、彼を愛するようになる。不倫関係の秘密は長続きせず、ほどなく家の使用人から発覚し町で噂の種となったことで、ジュリアンはレナール氏の家を追われブザンソンの神学校に送られる。

ジュリアンのような才能ある若者よりも、少々鈍くとも従順な生徒が好まれる神学校にあって彼はしばらく冷遇されるが、彼を評価していたピラール神父の紹介で由緒正しい大貴族であるラ・モール侯爵の秘書として雇われることとなり、ジュリアンはパリの上流階級に足を踏み入れた。慣れない田舎者なりに秘書としての仕事は卒なくこなしながらも、壮麗だが権威主義的で、上品だが倦怠感の漂うサロンや晩餐会に辟易とするジュリアンであったが、ラ・モール氏の娘、マチルドと交流するようになったことで彼の運命は転回し始める。若いマチルドは家柄、美貌共に申し分のない社交界の注目の的であったが、自分に追従する周囲の若者達に退屈しており、父の雇った才能ある農民の倅に興味を持ったのだ。この時代から失われた偉大さを退屈な社交界の中に探していた情熱的で高慢な娘と、田舎から出てきた自尊心の強い野心家が、互いのエゴで互いを支配しようとしながら、やがて二人は恋に落ちていく。身分上到底許される恋ではなかったが、マチルドが妊娠したことでその関係は公になり、ラ・モール侯爵は当然のごとく激怒するが、駆け落ちも辞さないマチルドの態度に折れ、不肖不肖ジュリアンを貴族ということにしてマチルドの結婚を認める。遂に上流階級の娘と地位・財産を手にして幸福の絶頂であったジュリアンであったが、そこに、ジュリアンがヴェリエールを去った後に不貞の罪を後悔し贖罪の日々を送っていたレナール夫人が町の聴罪司祭に言われるがままに書いた「ジュリアン・ソレルは良家の女を誘惑し出世の踏み台にしている」という内容の告発文が舞い込んだ。手紙を読んだラ・モール侯爵はジュリアンとマチルドとの婚約を取り消し、手にしかけた成功が手からこぼれ落ちたジュリアンはすぐさまヴェリエールに舞い戻り、教会で祈りを捧げていたレナール夫人をピストルで狙撃する。レナール夫人の命には別状なかったが、ジュリアンは逮捕され投獄される。ジュリアンを助けるためになりふり構わず有力者に助けを求めたマチルドの奔走もあり減刑の可能性もあったが、レナール夫人を殺そうとしたことを悔やむジュリアンは裁判で自らの罪を弁解することなく死刑を宣告される。最期の日々、ジュリアンはレナール夫人と面会し、幸福であったレナール夫人とのヴェリエールでの日々を思い出しながら穏やかに過ごし、処刑される。

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優れた小説がどれもそうであるように『赤と黒』を一言で形容するのは難しい。先に触れたような文体や歴史的背景に加えて、ジュリアンとレナール夫人の、そしてマチルドとの恋愛を描いた心理小説としての側面もしばしば注目される。フランスのいわゆる心理小説の系譜には17世紀に書かれた上流階級の恋愛を扱うラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』を源流として、後世に名を残したものだけを拾い上げても、魔性の女に翻弄される男を描いたプレヴォーの『マノン・レスコー』や、情熱的な恋愛がやがて悲劇的な様相を呈してゆくコンスタンの『アドルフ』、そして内面心理を描く上では便利な形式である書簡体のいくつかの作品(身分違いの恋を抒情的に描いたルソーの『新エロイーズ』や好色、放蕩、裏切りを描いたラクロの『危険な関係』など)があるが、『赤と黒』もこれらの名高い恋愛心理小説と比べても遜色ない。登場人物の心理に対する鋭い分析や行動の動機に焦点が当てられることが心理小説と呼ばれる所以だが、特にジュリアンとマチルドの恋は二人の内面が独白のような形で可視化される場面も多く、またスタンダールは『恋愛論』という恋愛心理を分類したエッセイまで書いているほどであり、その分析は精妙で鋭い。彼の墓碑銘*3にもあるようにスタンダールは恋愛の多い男であったが、美貌のジュリアン・ソレルや、あるいはサンセヴェリーナ侯爵夫人やクレリアに愛された『パルムの僧院』のファブリスとは違い、実らない恋の方がむしろ多かったようである。恋に苦労しない色男よりも連れない女を追いかける男の方が恋愛小説家に向いているかどうかは別として、少なくとも書くためのエネルギーとなっていたには違いない。スタンダールの死後、彼の作品が再評価された後の今日ではスタンダールの生涯や著作の研究が進んでおり、それこそ彼の愛人や片想いの相手まで当時の書簡などから明らかとなっているが、『赤と黒』を書くにあたって参考にしたと見られる実在の事件や、影響を受けた作品などもよく知られている。実は『赤と黒』のプロット自体、実在の事件から大部分を借用しており、家庭教師がその家庭の夫人と恋仲となるが、それが露見して家を追われ、恨んだ家庭教師がその夫人に向けて発砲するという筋書きにはモデル(「ベルテ事件」*4)がある。また、「人の家に上がりこむ偽善者」というモチーフは彼の憧れた大戯曲家であるモリエールの『タルチュフ』に想を得ており、スタンダールもそれを隠さない。小説のプロットを実在の事件から借りること自体は珍しくないが、スタンダールに関しては、評論家によってニュアンスは異なるものの、物語を次々と生み出していくバルザックのような創作の才をもたなかったという点では見解が一致している。定職につかず文壇に出入りしていた期間もあったが、職業作家ではなかったスタンダールは、陸軍の経理補佐官としてそれなりの出世を果たしたり、(その後王政復古による失職期間を経て)外交官としてローマ郊外のチヴィタヴェッキアに赴任するなど実務家としての顔を持ち、自ら政治的激震を立て続けに経験した時代の最中に生きながら、生涯一貫してしばしば熱烈な恋に落ち、また読書や観劇を好み、小説のみならず自伝や紀行文、批評文、翻訳、あるいはそれらを混合したような様々な形で、彼が目にした時代の様相や芸術について文章にしてきた*5

恋愛などの人間関係の中にある人間の心理を描いた小説は、小説で扱う世界が作中人物らの関係性のみで完結する箱庭的なものが少なくないが、『赤と黒』では主人公のジュリアンのみならず、レナール氏や夫人、ヴァルノ氏、ピラール神父、ラ・モール侯爵、マチルドなど『赤と黒』の登場人物はみなそれぞれが当時の政治的・経済的条件と分かち難く結びついている。先に触れた通りスタンダールは創作の天才ではなかったため、彼の人格と彼自身が経験し観察したものをほとんど全て小説の中に置いていく必要があったが、彼がそれらから夢見たものは大岡昇平のようなスタンダールの熱狂的なファンにとってさえも、あまりにロマネスク (批判的な意味で「小説的」であること) に感じられた。しかし、民衆の怒りがブルボン朝を打ち倒し、コルシカ生まれの砲兵士官が全ヨーロッパを震撼させた後の世界において、想像力の翼はより自由に羽ばたけたのも事実であろうし、またそうであったからこそ個人を制約する社会の様相もより強く感じられていたに違いない。加藤周一はかつて、「時代の条件、あるいは一世代の現実は、その受容や描写よりも、それを批判し、拒否し、乗り越えようとする表現の裡に、またその表現の裡にのみ、抜きさしならぬ究極の性質をあらわすのである」*6と書いたが、モリエールにもナポレオンにもなることのなかった恋多きこの共和主義者は、彼が辟易としていた王政復古後の時代においてありえたかもしれない人間を、彼の極めて優れた観察眼と洞察力で小説の形に結晶させた。結果的にそれは、ありのままに存在する人間をありのままに描写してみせるよりも、遥かによく時代の条件を浮き彫りにしている。

目を通した本の紹介
スタンダール赤と黒』上巻・下巻(新潮文庫
スタンダールパルムの僧院』上巻・下巻(岩波文庫
スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』上巻・下巻(岩波文庫
モリエール『タルチュフ』(岩波文庫
ルイ・アラゴンスタンダールの光』(青木書店)
エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』下巻(ちくま学芸文庫
サマーセット・モーム『世界の十大小説』上巻(岩波文庫
大岡昇平『わがスタンダール』(講談社学芸文庫)
芥川龍之介谷崎潤一郎文芸的な、余りに文芸的な・饒舌録』(講談社文芸文庫
加藤周一 『日本文学史序説』下巻 (ちくま学芸文庫)

*1:「組み立てと云う点で近頃私が驚いたのは、スタンダールの"The Charterhouse of Parma"である。この小説は英訳で五百ページからある。日本語にしたら千ページにもなる長編で、ワーテルローの戦争から伊太利の公国を舞台にしたものだが、話の筋は複雑纏綿、波瀾重畳を極めていて寸毫も長いと云う気を起こさせない。寧ろ短過ぎる感があるほどに圧搾されている。書き出しからワーテルローの戦場までが幾らか無味乾燥な嫌いはあるが、しかし元来スタンダールと云う人はわざと乾燥な、要約的な書き方をする人で、それが此の小説では、だんだん読んで行くうちに却って緊張味を帯び、異常な成功を収めている。」

*2:「私はウォルター・スコットの描写とルソーの誇張をほとんど同じ程度に嫌っているのだ」(『アンリ・ブリュラールの生涯』 第三十二章)

*3:「ミラノ人 アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」

*4:1827年に元神学生のアントワーヌ・ベルテがミシュー・ド・ラ・トゥール夫人に銃を発砲し大怪我を負わせた事件。ベルテはミシュー・ド・ラ・トゥール家の家庭教師であったが、夫人と愛人関係になったため家を追い出されていた。尚、その後ベルテは神学校に入ったがやがて放校となり、別の家で家庭教師となったが、そこでも同家の娘と恋仲となり、またも家を追われている。自分の不幸をミシュー夫妻のせいと逆恨みしたベルテは夫人を狙撃し、死刑を宣告された。

*5:スタンダール (Stendhal) というのはペンネームで本名はマリー・アンリ・ベール。1783年にフランス・グルノーブルで弁護士の父と名家出身の母の間に生まれ、幼少期はかなり恵まれた生活をしている。数学の成績が良かった彼は16歳の頃、パリの L'école polytechnique (理工科学校) の受験のためにパリに上京するが、フランス革命直後のパリに馴染めず神経衰弱を患い受験を断念。母方の親戚の口利きで軍人となり、ナポレオンのイタリア遠征軍に参加しミラノに入城するが、この滞在でスタンダールは美しい風土や人々の情熱に魅せられ、終生熱烈なイタリア礼賛者となった。軍には二年ほど所属したが、真面目な軍人とは程遠くもっぱら読書と観劇、そして恋愛にうつつを抜かしていたようで、軍を辞めた後も同棲していた女優の巡業に合わせて一時マルセイユに滞在したことさえある。パリに戻った23歳のスタンダールはやはり親戚の伝手で陸軍の経理補佐官に着任し、その後順調に出世したものの、1814年のナポレオンの退位・王政復古により職を失ったためミラノに渡った。その後、1821年にオーストリア政府からの国外退去命令によりパリに帰還するまで物書きとしてミラノで過ごす。パリに戻った後の約10年の間は、文壇に出入りしいくつかの紀行文や評論、小説を書くが、その中で最も重要なものが1830年11月に出版された『赤と黒』である。1830年七月革命により外交官として取り立てられたスタンダールトリエステ駐在フランス領事に任命されるが、オーストリア政府から許可が下りずローマ郊外の港町であるチヴィタヴェッキアに赴任する。この職は亡くなるまで続けていたが、外交官としての生活は暇であったようで、自伝の『アンリブリュラールの生涯』を書いているし、度々休暇をとってパリに戻っている。『パルムの僧院』は1839年に休暇中のパリで書き上げた。1842年、休暇中のパリで倒れ59歳で死去。

*6:日本文学史序説・下巻

『テレーズ デスケルウ』

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普段あまり小説を読むのが好きだと人には言わないのだけれども、たまたま何かの拍子に文学が話題に上ったときには否応なく好きな小説は何かという話になってしまう。個々人の好き嫌いなど取るに足らない問題であって古今東西の言葉の芸術がどう発展してきたかということこそが云々…と能書きを垂れたくなるのは、額面通りそう考えているところもあるけれども、自分の性格を見透かされそうな心持ちがして真面目に答えるのがこっ恥ずかしいというのもある。実際のところ好きな作品は色々とあるが、その中でも個人的に特別扱いをしたくなる作品を一つだけ挙げるとすれば『テレーズ デスケルウ』だろうか。『三四郎』や『ジャン・クリストフ』などと同じで主人公の名前がそのまま作品名になっているこの小説は、フランスのノーベル賞作家フランソワ・モーリアック1920年代に書いた小説で、私が初めて読んだのは10年ほど前になるが、それ以来ずっと強烈に記憶に残っている。モーリアックは少なくとも最近はあまり読まれる作家ではないだろうが、おそらく1900年代の中頃まではフランスの文豪として日本でもある程度読まれたのだろうと思う。国語便覧的に言えば、「(カトリック)信仰と肉欲の相剋」「伝統・因習に取り込められた個人」などが作品テーマと言える作家なので、現代の日本人にとって切迫した問題を扱っているようには見えないかもしれない。とは言えど、テレーズという人間の底の知れない魅力や小説としての完成度の高さは誰から見ても明らかであり、日本の作家に与えた影響も小さくないようだった。戦前、堀辰雄がこの作品に憧れて『菜穂子』を書いているし、戦後には三島由紀夫がこの作品からインスピレーションを受けて『愛の渇き』を書いた ( *1 ) 。また戦後の日本でモーリアックの名が広く知られるようになったのは遠藤周作によるところが大きいと思われるが、『テレーズ デスケルウ』の翻訳者でもある彼の本作品への執着は中々のもので、彼がフランスのリヨンに留学していた頃にこの作品の舞台を一目見たいという一心でボルドー郊外のランド地区にある松林と砂地しかないような村に足を運んでいるおり ( *2 ) 、また彼の晩年の小説『深い河』の中でもテレーズに直接の言及がある、というか似たような女の人を登場させてしまっているほどである。遠藤周作に関して言えば、彼はカトリックの家庭に生まれた「カトリック作家」であるのだからこの作品に魅入られたとしても自然の成り行きと思えなくはないが、モーリアックの文学はいわゆる護教文学の類ではなく、むしろ救われない心の孤独や闇をそのままに描き出したものが多く、それがキリスト教圏の評者に言わせれば「神の不在に苦しむ人間」ということではあるが、人間の孤独は何もクリスチャンの専売特許ではなかろう。確かにモーリアックに限らず我々が西洋の文学作品を読むときは、漱石三四郎ハムレットの劇を観て抱いたような違和感 ( *3 ) を持ちうるし、読み落としてしまう暗喩の類もあり得るだろうが、『テレーズ』に関しては少なくともその主題は異なる文化的コンテクスト持つ読者を排除しないし、作者の卓抜した手腕は言うまでもなく容易に時代や国境を超える。

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小説の舞台はフランス、ボルドー郊外ランド地区のアルジュルーズという村で、広大な荒地と松林が広がるド田舎だ。私は遠藤周作のように訪れまではしなかったがGoogle Mapsストリートビューで見てみると見事に何もない。小説は主人公のテレーズが裁判所から出てきて、父親のラロック氏に連れられて帰途につく場面で始まる。テレーズは夫 (ベルナール) の毒殺を企てた罪で訴追されたのだが、家の体面を守りたい夫の偽証によって免訴となったのだ。裁判所から鉄道、馬車と乗り継いで帰途につく間、テレーズは夫に自分の行動の動機を夫にわかってもらうための手掛かりを探すように、少女時代の出来事から順に、友人のアンヌとパリから来たユダヤ人青年との恋や、アンヌの兄であるベルナールとの結婚、夫との結婚生活、子供の出産、そして夫を毒殺しようとしたことを回想する。これが小説の前半だ。そして小説の時間は「今」に戻り、テレーズが家に到着した後、家の体面を守るためにこの事件を事故として揉み消した家族はテレーズが精神錯乱状態にあるとして、彼女を自宅に幽閉する。家の中に閉じ込められ、行動の自由も許されないテレーズはみるみる衰弱してゆくが、それに見かねたベルナールは毒殺未遂の噂も村から消えた頃、一人で暮らさせるために妻をパリに送り届けるところで小説は終わる。

テレーズのラロック家も、ベルナールのデスケルウ家も財産のある地方の名士でテレーズは経済的に不自由なく暮らしている。またベルナールは元から暴君というわけではなく、良識のある、大学教育を受けた、平日は狩猟に興じ休日は教会に通うような、至極まともな男である。そんな不自由ない世界の中でなぜテレーズが夫を毒殺しようとしたのかはっきりとは書かれない。夫の偏狭な価値観と自己満足に耐えられないであるとか、夫が彼女の知性にまともに向き合わないことに嫌気がさしただとか、新婚旅行で訪れたルーブル美術館でガイドブックと目の前の絵を突き合わせながら歩くような俗物の夫を許せないであるとか、夫との性行為に何の悦びも感じられないどころか苦痛であったことだとか、夫の家族と反りが合わないだとか、生まれてきた子供も彼女の救いにならなかっただとか、小説の中で一つ一つが見事に描かれるが、いずれの中にもテレーズははっきりとした自分の行動の動機を見出してはいない。1920年代のフランスでは、因習は現代よりもさらに重苦しく、女性の人格は軽んじられ、古い家ならば自由な恋愛から結婚というわけにもいかなかっただろう。しかしこれらを取り去ったとしても、彼女を締め上げる社会規範は依然存在し続けるだろうし、そのコードの中でしかものを見ない人間に取り囲まれることの深い孤独と不安は消えはしなかっただろう。小説の最後にパリのカフェで、和解のような雰囲気の中で夫ベルナールは「「あれ」の理由はなんだったんだ」とテレーズに問いかけるが、テレーズは「あなたの家の松林から取れる松脂の利益を独り占めしたかったから」と答える。おそらくは、あなたの持つ文法で読み解けるような答えが欲しいのならばくれてあげるわという諦めと、単純で乱暴な社会規範の中に埋もれて生きればもしかすると自分は救われるのではないかという祈りを込めて。ベルナールは「最初はおれもそう思ったのだ」と言いつつも釈然としない様子で、するとテレーズは「あなたの目の中に不安と好奇心を見たかったのよ」と言葉を継ぐが、「才女ぶった」その言葉は彼に理解されず、「人形のように生きたくなかった」という彼女の想いはパリの風の中に消える。人間の奥底にある闇や不安であるとか、生の倦怠であるとか、それにどう名前をつけようが彼女の行為の理由を汲み尽くすことはできないだろう。そもそも単純明快な言葉で汲み尽くせるような行為など、ありはしないのだ。殊に内省的な人間は、行為に明確な理由があると信じて止まない人間に、その心の動きをうまく言葉で説明することができない。しかし、人は否が応にも自分の生きる社会のコードに則った理由づけを常に求められる。現代であっても、なぜこの仕事をしているのか、なぜこの相手と結婚したのか、なぜ子供を持ったのか、その理由を問われたところで、その行為や不行為に至るまでの心の動きを全て汲み尽くすことができるだろうか。殺人や自殺ほど切実に他者からその動機を問われるような行為に立ち会うことが日常生活では稀であるため、言葉で捉えきることができない人の心や、自分の心さえ捉えきることができないという不安を、見て見ぬ振りをしてはいないだろうか。それは果たして誠実な態度なのだろうか。たしかに「過度な誠実さは内省に導き、内省は懐疑に導き、懐疑はどこにも導かない」( *4 )けれども。モーリアックの凝縮された文体は、スタンダールの小説に見られるような語り手による主人公の心理の実況中継や、葉っぱの葉脈一本すら書き落とさないかのようなフローベールの写実の力量によってたどり着くものとは異なるものを明らかにする。テレーズの眺める風景や、彼女と彼女を取り巻く人々との関係の本質的な部分のみを書き出すことで、小説の丸ごと全体が「なぜテレーズは毒を盛ったのか」という行為の理由を示している。おおよそ人の心の中にある不安や衝動は「2 x 2 = 4」( *5 ) のような一筋の理路によって説明されるのではなく、物語られ、示されるのでしかないという立論の証明を、モーリアックは彼の小説の技法の成功に託しているのだ。そしてその労苦を伴う試みは、堀辰雄が激賞しているように ( *6 ) 素晴らしく結実している。前半でハムレットに当惑する三四郎の一節などを引いてしまったものだからキリスト教の話を意図的に避けてきたが、人間は人間の魂を捕まえることができなくとも創造主であれば全てを知りそして赦すだろう、という希望を取り上げられた人間が叩き込まれる場所の風景を明らかにすることが、モーリアックの目指したところであった ( *7 ) 。そしていま、あらためてモーリアックが『テレーズ デスケルウ』の冒頭で掲げたボードレールの詩句を眺めると、まさにこの小説の入り口を飾るに相応しい言葉として際立っている。

≪主よ、憐憫を垂れ給へ、願はくば心狂へる男女の群れに憐憫を垂れさせ給へ!おお造物主よ!何故にそれらが存在し、如何にしてそれらが作られしかを、及び如何にしてそれらが作られずしもありえしかを知り給へる、唯一人なる者の御眼にまでは、そも怪物とは存在しうるものでせうか… ≫ ( *8 )

目を通した本の紹介
フランソワ・モーリアック『テレーズ デスケルウ』(講談社文芸文庫
フランソワ・モーリアック『テレーズ デスケイルゥ』 (新潮文庫)
フランソワ・モーリアック『モーリアック著作集2』 (春秋社)
堀辰雄『菜穂子 他五篇』(岩波文庫)
堀辰雄『ヴェランダにて』 (オンラインの青空文庫)
三島由紀夫『愛の渇き』 (新潮文庫)
遠藤周作『深い河』(講談社文庫)
遠藤周作『フランスの大学生』(新風者文庫)
遠藤周作『私の愛した小説』 (新潮文庫)
夏目漱石三四郎』(新潮文庫
フョードル・ドストエフスキー地下室の手記』(新潮文庫
フランソワ・モーリアック『愛の砂漠』 (講談社文芸文庫)
ポール・ヴァレリーヴァレリー・セレクション 上』 (平凡社ライブラリー)

*1:堀辰雄の『菜穂子』は正直なところ傑出した小説とは言い難い。彼の芸は、信州の自然と病(結核)のイメージを彼の詩的文体と美意識でもって文学に昇華させる技量に拠っており、「本格的な小説を書いてみたかった」という芸術的野心を叶えるには彼の一生は短すぎた。一方、三島由紀夫の『愛の渇き』は、モーリアックに影響を受けたとは言いつつも、原形を留めないほど彼一流のやり方で換骨奪胎しているのでそれはそれとして面白いように思う。

*2:このあたりの執着の度合いは遠藤周作のエッセイ『フランスの大学生』や『私の愛した小説』に詳しい。特に『フランスの大学生』では、1950年代のフランスにおける文学の潮流が遠藤と現地の学生との議論を通じて垣間見ることができ興味深い。

*3:三四郎ハムレットがもう少し日本人じみた事を云って呉れれば好いと思つた。御母さん、それぢや御父さんに済まないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出して呑気に遣つて仕舞ふ。」(夏目漱石/『三四郎』)。

*4:ポール・ヴァレリーの『言わないでおいたこと』より

*5:モーリアックも影響を受けたドストエフスキーの『地下室の手記』より。この小説で展開される議論において、こことそう遠くないであろう文脈において使われる。

*6:「この可哀さうな毒殺女の氣持のよく描けてゐることと云つたら!恐らく讀者には、テレェズ自身よりも、彼女の夫を毒殺するに至るまでの心理が、はつきりと辿れるのだ。何故ならテレェズには、彼女自身のしてゐることを殆ど意識してゐないやうな瞬間があるのだが、さういふ瞬間でさへ、讀者は、彼女がうつろな氣持で見つつある風景や、彼女の無意識的な動作などによつて、彼女がその心の闇のなかでどんなことを考へ、感じてゐるかを知り、感ずることが出來るのだ。――こんな工合に讀者を作中人物の氣持のなかへ完全に立ち入らせてしまふなんて云ふのは、君、大した腕だよ。それがこれほどまでに成功してゐる例は滅多にあるものぢやない。」(堀辰雄 / 『ヴェランダにて』)

*7:「私の作中人物は、ある特別な一点にかけて、現代のさまざまな小説の中に生きている他のほとんどすべての人物とは違っています。それは、私の作中人物たちが、自分は魂というものがあると感じている点です。何しろニーチェ以後のヨーロッパには、神は死んだというツァラトストラの叫びのこだまがまだ聞こえていて、その恐るべき結果はまだきわめ尽くされていないのですから…」(フランソワ・モーリアック / 『愛の砂漠』 (講談社文芸文庫) 巻末の若林真の解説よりモーリアックの言葉を抜粋)

*8:ボードレール / 三好達治訳『巴里の憂鬱』