『テレーズ デスケルウ』

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普段あまり小説を読むのが好きだと人には言わないのだけれども、たまたま何かの拍子に文学が話題に上ったときには否応なく好きな小説は何かという話になってしまう。個々人の好き嫌いなど取るに足らない問題であって古今東西の言葉の芸術がどう発展してきたかということこそが云々…と能書きを垂れたくなるのは、額面通りそう考えているところもあるけれども、自分の性格を見透かされそうな心持ちがして真面目に答えるのがこっ恥ずかしいというのもある。実際のところ好きな作品は色々とあるが、その中でも個人的に特別扱いをしたくなる作品を一つだけ挙げるとすれば『テレーズ デスケルウ』だろうか。『三四郎』や『ジャン・クリストフ』などと同じで主人公の名前がそのまま作品名になっているこの小説は、フランスのノーベル賞作家フランソワ・モーリアック1920年代に書いた小説で、私が初めて読んだのは10年ほど前になるが、それ以来ずっと強烈に記憶に残っている。モーリアックは少なくとも最近はあまり読まれる作家ではないだろうが、おそらく1900年代の中頃まではフランスの文豪として日本でもある程度読まれたのだろうと思う。国語便覧的に言えば、「(カトリック)信仰と肉欲の相剋」「伝統・因習に取り込められた個人」などが作品テーマと言える作家なので、現代の日本人にとって切迫した問題を扱っているようには見えないかもしれない。とは言えど、テレーズという人間の底の知れない魅力や小説としての完成度の高さは誰から見ても明らかであり、日本の作家に与えた影響も小さくないようだった。戦前、堀辰雄がこの作品に憧れて『菜穂子』を書いているし、戦後には三島由紀夫がこの作品からインスピレーションを受けて『愛の渇き』を書いた ( *1 ) 。また戦後の日本でモーリアックの名が広く知られるようになったのは遠藤周作によるところが大きいと思われるが、『テレーズ デスケルウ』の翻訳者でもある彼の本作品への執着は中々のもので、彼がフランスのリヨンに留学していた頃にこの作品の舞台を一目見たいという一心でボルドー郊外のランド地区にある松林と砂地しかないような村に足を運んでいるおり ( *2 ) 、また彼の晩年の小説『深い河』の中でもテレーズに直接の言及がある、というか似たような女の人を登場させてしまっているほどである。遠藤周作に関して言えば、彼はカトリックの家庭に生まれた「カトリック作家」であるのだからこの作品に魅入られたとしても自然の成り行きと思えなくはないが、モーリアックの文学はいわゆる護教文学の類ではなく、むしろ救われない心の孤独や闇をそのままに描き出したものが多く、それがキリスト教圏の評者に言わせれば「神の不在に苦しむ人間」ということではあるが、人間の孤独は何もクリスチャンの専売特許ではなかろう。確かにモーリアックに限らず我々が西洋の文学作品を読むときは、漱石三四郎ハムレットの劇を観て抱いたような違和感 ( *3 ) を持ちうるし、読み落としてしまう暗喩の類もあり得るだろうが、『テレーズ』に関しては少なくともその主題は異なる文化的コンテクスト持つ読者を排除しないし、作者の卓抜した手腕は言うまでもなく容易に時代や国境を超える。

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小説の舞台はフランス、ボルドー郊外ランド地区のアルジュルーズという村で、広大な荒地と松林が広がるド田舎だ。私は遠藤周作のように訪れまではしなかったがGoogle Mapsストリートビューで見てみると見事に何もない。小説は主人公のテレーズが裁判所から出てきて、父親のラロック氏に連れられて帰途につく場面で始まる。テレーズは夫 (ベルナール) の毒殺を企てた罪で訴追されたのだが、家の体面を守りたい夫の偽証によって免訴となったのだ。裁判所から鉄道、馬車と乗り継いで帰途につく間、テレーズは夫に自分の行動の動機を夫にわかってもらうための手掛かりを探すように、少女時代の出来事から順に、友人のアンヌとパリから来たユダヤ人青年との恋や、アンヌの兄であるベルナールとの結婚、夫との結婚生活、子供の出産、そして夫を毒殺しようとしたことを回想する。これが小説の前半だ。そして小説の時間は「今」に戻り、テレーズが家に到着した後、家の体面を守るためにこの事件を事故として揉み消した家族はテレーズが精神錯乱状態にあるとして、彼女を自宅に幽閉する。家の中に閉じ込められ、行動の自由も許されないテレーズはみるみる衰弱してゆくが、それに見かねたベルナールは毒殺未遂の噂も村から消えた頃、一人で暮らさせるために妻をパリに送り届けるところで小説は終わる。

テレーズのラロック家も、ベルナールのデスケルウ家も財産のある地方の名士でテレーズは経済的に不自由なく暮らしている。またベルナールは元から暴君というわけではなく、良識のある、大学教育を受けた、平日は狩猟に興じ休日は教会に通うような、至極まともな男である。そんな不自由ない世界の中でなぜテレーズが夫を毒殺しようとしたのかはっきりとは書かれない。夫の偏狭な価値観と自己満足に耐えられないであるとか、夫が彼女の知性にまともに向き合わないことに嫌気がさしただとか、新婚旅行で訪れたルーブル美術館でガイドブックと目の前の絵を突き合わせながら歩くような俗物の夫を許せないであるとか、夫との性行為に何の悦びも感じられないどころか苦痛であったことだとか、夫の家族と反りが合わないだとか、生まれてきた子供も彼女の救いにならなかっただとか、小説の中で一つ一つが見事に描かれるが、いずれの中にもテレーズははっきりとした自分の行動の動機を見出してはいない。1920年代のフランスでは、因習は現代よりもさらに重苦しく、女性の人格は軽んじられ、古い家ならば自由な恋愛から結婚というわけにもいかなかっただろう。しかしこれらを取り去ったとしても、彼女を締め上げる社会規範は依然存在し続けるだろうし、そのコードの中でしかものを見ない人間に取り囲まれることの深い孤独と不安は消えはしなかっただろう。小説の最後にパリのカフェで、和解のような雰囲気の中で夫ベルナールは「「あれ」の理由はなんだったんだ」とテレーズに問いかけるが、テレーズは「あなたの家の松林から取れる松脂の利益を独り占めしたかったから」と答える。おそらくは、あなたの持つ文法で読み解けるような答えが欲しいのならばくれてあげるわという諦めと、単純で乱暴な社会規範の中に埋もれて生きればもしかすると自分は救われるのではないかという祈りを込めて。ベルナールは「最初はおれもそう思ったのだ」と言いつつも釈然としない様子で、するとテレーズは「あなたの目の中に不安と好奇心を見たかったのよ」と言葉を継ぐが、「才女ぶった」その言葉は彼に理解されず、「人形のように生きたくなかった」という彼女の想いはパリの風の中に消える。人間の奥底にある闇や不安であるとか、生の倦怠であるとか、それにどう名前をつけようが彼女の行為の理由を汲み尽くすことはできないだろう。そもそも単純明快な言葉で汲み尽くせるような行為など、ありはしないのだ。殊に内省的な人間は、行為に明確な理由があると信じて止まない人間に、その心の動きをうまく言葉で説明することができない。しかし、人は否が応にも自分の生きる社会のコードに則った理由づけを常に求められる。現代であっても、なぜこの仕事をしているのか、なぜこの相手と結婚したのか、なぜ子供を持ったのか、その理由を問われたところで、その行為や不行為に至るまでの心の動きを全て汲み尽くすことができるだろうか。殺人や自殺ほど切実に他者からその動機を問われるような行為に立ち会うことが日常生活では稀であるため、言葉で捉えきることができない人の心や、自分の心さえ捉えきることができないという不安を、見て見ぬ振りをしてはいないだろうか。それは果たして誠実な態度なのだろうか。たしかに「過度な誠実さは内省に導き、内省は懐疑に導き、懐疑はどこにも導かない」( *4 )けれども。モーリアックの凝縮された文体は、スタンダールの小説に見られるような語り手による主人公の心理の実況中継や、葉っぱの葉脈一本すら書き落とさないかのようなフローベールの写実の力量によってたどり着くものとは異なるものを明らかにする。テレーズの眺める風景や、彼女と彼女を取り巻く人々との関係の本質的な部分のみを書き出すことで、小説の丸ごと全体が「なぜテレーズは毒を盛ったのか」という行為の理由を示している。おおよそ人の心の中にある不安や衝動は「2 x 2 = 4」( *5 ) のような一筋の理路によって説明されるのではなく、物語られ、示されるのでしかないという立論の証明を、モーリアックは彼の小説の技法の成功に託しているのだ。そしてその労苦を伴う試みは、堀辰雄が激賞しているように ( *6 ) 素晴らしく結実している。前半でハムレットに当惑する三四郎の一節などを引いてしまったものだからキリスト教の話を意図的に避けてきたが、人間は人間の魂を捕まえることができなくとも創造主であれば全てを知りそして赦すだろう、という希望を取り上げられた人間が叩き込まれる場所の風景を明らかにすることが、モーリアックの目指したところであった ( *7 ) 。そしていま、あらためてモーリアックが『テレーズ デスケルウ』の冒頭で掲げたボードレールの詩句を眺めると、まさにこの小説の入り口を飾るに相応しい言葉として際立っている。

≪主よ、憐憫を垂れ給へ、願はくば心狂へる男女の群れに憐憫を垂れさせ給へ!おお造物主よ!何故にそれらが存在し、如何にしてそれらが作られしかを、及び如何にしてそれらが作られずしもありえしかを知り給へる、唯一人なる者の御眼にまでは、そも怪物とは存在しうるものでせうか… ≫ ( *8 )

目を通した本の紹介
フランソワ・モーリアック『テレーズ デスケルウ』(講談社文芸文庫
フランソワ・モーリアック『テレーズ デスケイルゥ』 (新潮文庫)
フランソワ・モーリアック『モーリアック著作集2』 (春秋社)
堀辰雄『菜穂子 他五篇』(岩波文庫)
堀辰雄『ヴェランダにて』 (オンラインの青空文庫)
三島由紀夫『愛の渇き』 (新潮文庫)
遠藤周作『深い河』(講談社文庫)
遠藤周作『フランスの大学生』(新風者文庫)
遠藤周作『私の愛した小説』 (新潮文庫)
夏目漱石三四郎』(新潮文庫
フョードル・ドストエフスキー地下室の手記』(新潮文庫
フランソワ・モーリアック『愛の砂漠』 (講談社文芸文庫)
ポール・ヴァレリーヴァレリー・セレクション 上』 (平凡社ライブラリー)

*1:堀辰雄の『菜穂子』は正直なところ傑出した小説とは言い難い。彼の芸は、信州の自然と病(結核)のイメージを彼の詩的文体と美意識でもって文学に昇華させる技量に拠っており、「本格的な小説を書いてみたかった」という芸術的野心を叶えるには彼の一生は短すぎた。一方、三島由紀夫の『愛の渇き』は、モーリアックに影響を受けたとは言いつつも、原形を留めないほど彼一流のやり方で換骨奪胎しているのでそれはそれとして面白いように思う。

*2:このあたりの執着の度合いは遠藤周作のエッセイ『フランスの大学生』や『私の愛した小説』に詳しい。特に『フランスの大学生』では、1950年代のフランスにおける文学の潮流が遠藤と現地の学生との議論を通じて垣間見ることができ興味深い。

*3:三四郎ハムレットがもう少し日本人じみた事を云って呉れれば好いと思つた。御母さん、それぢや御父さんに済まないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出して呑気に遣つて仕舞ふ。」(夏目漱石/『三四郎』)。

*4:ポール・ヴァレリーの『言わないでおいたこと』より

*5:モーリアックも影響を受けたドストエフスキーの『地下室の手記』より。この小説で展開される議論において、こことそう遠くないであろう文脈において使われる。

*6:「この可哀さうな毒殺女の氣持のよく描けてゐることと云つたら!恐らく讀者には、テレェズ自身よりも、彼女の夫を毒殺するに至るまでの心理が、はつきりと辿れるのだ。何故ならテレェズには、彼女自身のしてゐることを殆ど意識してゐないやうな瞬間があるのだが、さういふ瞬間でさへ、讀者は、彼女がうつろな氣持で見つつある風景や、彼女の無意識的な動作などによつて、彼女がその心の闇のなかでどんなことを考へ、感じてゐるかを知り、感ずることが出來るのだ。――こんな工合に讀者を作中人物の氣持のなかへ完全に立ち入らせてしまふなんて云ふのは、君、大した腕だよ。それがこれほどまでに成功してゐる例は滅多にあるものぢやない。」(堀辰雄 / 『ヴェランダにて』)

*7:「私の作中人物は、ある特別な一点にかけて、現代のさまざまな小説の中に生きている他のほとんどすべての人物とは違っています。それは、私の作中人物たちが、自分は魂というものがあると感じている点です。何しろニーチェ以後のヨーロッパには、神は死んだというツァラトストラの叫びのこだまがまだ聞こえていて、その恐るべき結果はまだきわめ尽くされていないのですから…」(フランソワ・モーリアック / 『愛の砂漠』 (講談社文芸文庫) 巻末の若林真の解説よりモーリアックの言葉を抜粋)

*8:ボードレール / 三好達治訳『巴里の憂鬱』