雑記

芥川賞受賞作品は滅多に読まないのだけれど、柴田翔の『されどわれらが日々』(1964年受賞) は読んだことがある。最近読み返したわけでもないので筋はほとんど忘れてしまったのだが、昨日ふと読後感だけ思い出した。ゲーテの『ファウスト』の講談社文芸文庫の訳者はその柴田翔で、彼の翻訳はとても気に入っている。彼は東大の工学部に進学したもののその後文学部のドイツ文学科に転学し、そのまま作家・ドイツ文学者になった。自分は理系で入学してそのまま理系の学部を出たけれど、駒場にいるあいだなど特に、文学以外やりたくないと心の中で駄々をこねていた時期もあったので、実際に転学してその道で一定の成功を収めた彼をかっこいいなと思っていたりしていた。とは言え私は転学するわけでもなくそのまま大学院まで進み、なぜか今はサラリーマンとしてあくせく働いており、普段はろくに本も読めないというありさまなので、もはやうらやましがる資格もないし、今も昔も変わらない自分の節操のなさにたまに悄然とする。犬のように働くことは、科学や文学への憧れも執着も能力も凡人並であったという不愉快な事実を忘れるにはちょうど良いし、偏執狂になりたくともなることができない生来のバランス感覚は仕事におおいに役立っていると思う。結局なるようにしかならないのだろう。

『されどわれらが日々』は50年代、六全協 (日本共産党の方針転換。武力による革命の放棄。) を経験したインテリ学生らの青春群像劇、とでも要約されるのだろうけれど、正直なところ学生運動の背後にある思想やらなんやらはあまり私の興味を引かなくて、あぁそういうのが流行った時代なんですねと思うくらいだったが、やたらセンチメンタルなのは作者の若さゆえのなんとかということで差し引いても、全体に染み渡る理屈っぽさはなんだか滑稽というか興味深いなと思った記憶がある。理屈っぽく語ることがクールだった時代に青春を描くとこうなるんだなという薄っすらとした感想である。例えば主人公の男とその婚約者の女は最後、女が自殺未遂をした後に婚約を解消して別れるのだが、分厚い手紙で説明されるその女の動機もいかにも「理屈」で、いやそんなことで人間死にたいとか別れたいと思わないでしょう、と突っ込みたくなる。「結局僕の死は自然死です。人間思想だけで死ねるわけではないのですから」みたいなことを書いた太宰治の言葉の方が幾分かよく理解できるし、あの手紙に並べられていた理屈よりも、寝ている女の口元から覗く歯の汚れがたまらなく嫌で縁を切った、みたいなことを書いた永井荷風の方が人間関係の機微をよほどよく描けているとも思う。荷風は玄人の女性としか遊ばなかったというからそれはそれで一面的な気もするけれど。

ここまであたりが確か読んだ時に感じたことだったと思う。なのだが、あらためて考えてみると、死んだり別れたりする理由が理屈の人間が存在してもおかしくはないし、そういう人間がいるのであれば、またそういう人間の類型が語るに値するのであれば、理屈に導かれるような小説がより現実を描き出すのにふさわしいこともあるのかもしれない。柴田の『されど…』は60-70年代の若者のバイブルだったようだが、その当時は私が学生をしていた2000年代半ばよりも遥かに思想のうねりは大きく、この小説はそれに飲みこまれ漂流した若者への鎮魂歌になったのだろう。この小説で描かれるのは当時の日本人のごく一部に過ぎない東大の左翼学生だが、理屈の得意な彼らが時代の様相をよくあらわしていたからこそ、このような小説も流行ったのだろう。だとすると、筋書きを観念にはめ込んだような小説に対して私が感じる反発は、自分には理屈が少し得意なことくらいしか取り柄がないのに、自分の生きる時代はそういったタイプに象徴されるような時代ではないということへの嫉妬というか八つ当たり的な感情の裏返しだったのかもしれない。理科の教科書にも歴史の教科書にも国語便覧にも自分の名前が載らないことがいよいよはっきりしてきた中年の入り口に立って、語られるべき時代の語られるべきタイプの人間ですらなかったのかもしれないということまで消化しなければいけないとすると、また週明けからあくせく働く必要がありそうだ。

『赤と黒』

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赤と黒』は高校生の頃、授業中机の下に文庫本を隠して夢中で読んだのを覚えている。退屈な授業ほど読書に専念できたのでむしろ楽しみにしていた。本に関しては物持ちがいいので15年ほど前に読んだ文庫本そのものをパラパラとめくりながら書いているが、なぜ16歳か17歳かの頃にこの本を手に取ったのかは思い出せない。国語便覧の海外文学の章に紹介されている作品を片っ端から読んでいた時期なのでたいした理由はなかったのだろう。読み始めた理由は覚えていないが、夢中になった理由は覚えていて、主人公のジュリアン・ソレルの優れた頭脳と、高潔で繊細な心、俗物への軽蔑と、目的のためならば偽善者となることを厭わない野心に魅せられたからだが、そんな主人公が才覚と野心で出世と上流階級の女を手に入れる物語に夢中になるのは、十代の少年にとって珍しいことではなかったのだろうと思う。もちろん、優れた主人公による立身出世と恋の物語ならば、おおよそどの時代どの場所にも心をくすぐる凡百の創作物を見つけることができるだろうが、読者のスノビズムを差し引いてもなお、『赤と黒』には読まれる価値が十分に残るのではないかと思う。

作者のスタンダールは『赤と黒』や『パルムの僧院』の最後に"To the happy few" (「少数の幸福な者たちへ」) と書いたり、自分の作品は1880年または1930年にならないと評価されないだろう (スタンダールは1842年に死んでいる) と言ったりと、自分の作品はごく少数の読者、あるいは後世の読者にしか評価されないと思っていたようである。作家のサマーセット・モームが『世界の十大小説』の中で言っているように、自分の作品は後世にこそ認められると信じて死んだ作家や芸術家は数多くいるが、実際にそうなった例は少ない。スタンダールはその意味で数少ない例外の一人で『赤と黒』にしろ『パルムの僧院』にしろ、特に同年代で文豪としての名声を確立していたバルザックの作品群と比べても同時代に高く評価されていたとは言い難いが、今では『赤と黒』や『パルムの僧院』は近代小説の祖として不滅の地位を築いている。日本でもスタンダールを専門とするフランス文学の研究者は少なくないし、また小説家の中では大岡昇平が熱心なスタンダリアンとして知られており、彼の評論は『わがスタンダール』というエッセイ集にまとめられている。それ以前には、有名な谷崎潤一郎芥川龍之介の文学論争 (『饒舌録』と『文芸的な、余りに文芸的な』) の中で谷崎は英訳版を読んだという『パルムの僧院』を面白い作品の例として挙げている*1谷崎潤一郎が『パルムの僧院』について書いたとおり、また本人も、ルソーのような凝った文体や、当時フランスでもよく読まれていウォルター・スコットのような描写の多い文章は書きたくないと言っている*2 ように、スタンダールの文体は簡素で、また細部にわたる長々とした描写や仰々しい口ぶりの冗漫な語りがなく、物語はスピードと緊張感をもって進展していく。

スタンダールは『赤と黒』に「1830年代史」という副題をつけたが、1830年というのはフランス史の中でも特に重要な年で、七月革命によってシャルル10世復古王政が打倒された年である。『赤と黒』の舞台はその前夜、つまり復古王政のフランス社会を描いたもので、七月革命は描かれない。七月革命は文字通り七月に起きた政変だが、『赤と黒』の出版は同年の十一月であり、言わば執筆を歴史が追い越した形となった。スタンダールは『赤と黒』の第一部十三章で「小説、それは道に沿ってもち運ばれる鏡である」という言葉を掲げているが、この小説が映すのは、先に述べたとおり王党派貴族と修道会が復権し閉塞感が支配する復古王政のフランス社会である。この作品はレアリズム小説と分類されることもあるが、人間の情熱や理想を飾り立てた文体で表現したロマン主義に対して、簡潔な文体で社会の根底にある現実を描き出したことによってそう呼ばれる。フランス革命という社会の大変革とナポレオンという不世出の天才による欧州の席捲に対する反動の時代がルイ18世シャルル10世と続く復古王政だが、大革命とナポレオンによって辛酸を舐め、さらなる革命に怯えた「王よりも王党的」な貴族と聖職者が、言論を監視し、選挙権を制限し、自由主義者を迫害した時代である。ナポレオンの世のように平民が勇気と才覚によって取り立てられうる時代ではもはやなく、『赤と黒』の主人公に残されていたのは聖職者として成り上がることだけだった。題名の『赤と黒』の由来については諸説あるが、赤が軍服、黒が聖職者の僧衣を象徴しているというのが通説である。

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赤と黒』の主人公、ジュリアン・ソレルはフランスの小都市ブザンソンの郊外・ヴェリエールの貧しい製材屋の息子である。彼は色白の華奢な少年で製材屋の力仕事には役に立たず、本ばかり読んでいたため父親や兄から疎まれ虐待されて育った。ジュリアンにはナポレオンのイタリア遠征への従軍経験を持つ親戚の老軍医正がおり、この老人の影響でジュリアンはナポレオンの戦況報告集や『セント=ヘレナ日記』、そしてルソーの『告白録』を彼の聖典として読書に耽る少年時代を過ごしていた。軍人として成功するという野心を胸に秘めていたジュリアンであったが、ナポレオン失脚後の社会において軍人としての栄達を望むことはできないと悟り、聖職者として出世することを決心する。優秀な頭脳を持つジュリアンは町の司祭から聖職者としての手ほどきをうけると、ラテン語新約聖書を丸暗記するほどの才覚を見せ、彼の神童ぶりはヴェリエールの町に知れ渡り、その噂を耳にしたヴェリエールの町長レナール氏がジュリアンを彼の子供らの家庭教師として雇うことになる。レナール氏は地位と財産を鼻にかける見栄っ張りの俗物であり、王政復古によって町長の立場を手に入れた急進王党派である。そもそも彼がジュリアンを家庭教師として雇ったのも、彼のライバルである貧民収容所の所長であるヴァルノ氏がノルマンディー産の駿馬を手に入れたことへの対抗意識からだった。レナール家で住み込みの家庭教師として生活し始めたジュリアンはその家に集う「金持ちども」への憎しみと軽蔑を抱きながらも、敬虔な聖職者の卵として立ち振る舞い、燃えるような野心もナポレオン崇拝も隠して過ごしていたが、レナール夫人とのふとしたやり取りをきっかけに、上流階級の女を手に入れるのが自分の義務だと考えるようになる。夫人はブザンソンの資産家の娘であったが、夫レナール氏は夫人が将来相続する財産にしか関心を持っていない。男はみなレナール氏やヴァルノ氏のような下品で地位や金にしか興味のない生き物だと思っていた夫人は情熱的な恋愛を知らないまま若い母親となったわけだが、最初は貧しくひ弱な青年に対する同情心のはずが、やがてジュリアンの誇り高さと大胆さそしておそらくその美貌から、彼を愛するようになる。不倫関係の秘密は長続きせず、ほどなく家の使用人から発覚し町で噂の種となったことで、ジュリアンはレナール氏の家を追われブザンソンの神学校に送られる。

ジュリアンのような才能ある若者よりも、少々鈍くとも従順な生徒が好まれる神学校にあって彼はしばらく冷遇されるが、彼を評価していたピラール神父の紹介で由緒正しい大貴族であるラ・モール侯爵の秘書として雇われることとなり、ジュリアンはパリの上流階級に足を踏み入れた。慣れない田舎者なりに秘書としての仕事は卒なくこなしながらも、壮麗だが権威主義的で、上品だが倦怠感の漂うサロンや晩餐会に辟易とするジュリアンであったが、ラ・モール氏の娘、マチルドと交流するようになったことで彼の運命は転回し始める。若いマチルドは家柄、美貌共に申し分のない社交界の注目の的であったが、自分に追従する周囲の若者達に退屈しており、父の雇った才能ある農民の倅に興味を持ったのだ。この時代から失われた偉大さを退屈な社交界の中に探していた情熱的で高慢な娘と、田舎から出てきた自尊心の強い野心家が、互いのエゴで互いを支配しようとしながら、やがて二人は恋に落ちていく。身分上到底許される恋ではなかったが、マチルドが妊娠したことでその関係は公になり、ラ・モール侯爵は当然のごとく激怒するが、駆け落ちも辞さないマチルドの態度に折れ、不肖不肖ジュリアンを貴族ということにしてマチルドの結婚を認める。遂に上流階級の娘と地位・財産を手にして幸福の絶頂であったジュリアンであったが、そこに、ジュリアンがヴェリエールを去った後に不貞の罪を後悔し贖罪の日々を送っていたレナール夫人が町の聴罪司祭に言われるがままに書いた「ジュリアン・ソレルは良家の女を誘惑し出世の踏み台にしている」という内容の告発文が舞い込んだ。手紙を読んだラ・モール侯爵はジュリアンとマチルドとの婚約を取り消し、手にしかけた成功が手からこぼれ落ちたジュリアンはすぐさまヴェリエールに舞い戻り、教会で祈りを捧げていたレナール夫人をピストルで狙撃する。レナール夫人の命には別状なかったが、ジュリアンは逮捕され投獄される。ジュリアンを助けるためになりふり構わず有力者に助けを求めたマチルドの奔走もあり減刑の可能性もあったが、レナール夫人を殺そうとしたことを悔やむジュリアンは裁判で自らの罪を弁解することなく死刑を宣告される。最期の日々、ジュリアンはレナール夫人と面会し、幸福であったレナール夫人とのヴェリエールでの日々を思い出しながら穏やかに過ごし、処刑される。

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優れた小説がどれもそうであるように『赤と黒』を一言で形容するのは難しい。先に触れたような文体や歴史的背景に加えて、ジュリアンとレナール夫人の、そしてマチルドとの恋愛を描いた心理小説としての側面もしばしば注目される。フランスのいわゆる心理小説の系譜には17世紀に書かれた上流階級の恋愛を扱うラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』を源流として、後世に名を残したものだけを拾い上げても、魔性の女に翻弄される男を描いたプレヴォーの『マノン・レスコー』や、情熱的な恋愛がやがて悲劇的な様相を呈してゆくコンスタンの『アドルフ』、そして内面心理を描く上では便利な形式である書簡体のいくつかの作品(身分違いの恋を抒情的に描いたルソーの『新エロイーズ』や好色、放蕩、裏切りを描いたラクロの『危険な関係』など)があるが、『赤と黒』もこれらの名高い恋愛心理小説と比べても遜色ない。登場人物の心理に対する鋭い分析や行動の動機に焦点が当てられることが心理小説と呼ばれる所以だが、特にジュリアンとマチルドの恋は二人の内面が独白のような形で可視化される場面も多く、またスタンダールは『恋愛論』という恋愛心理を分類したエッセイまで書いているほどであり、その分析は精妙で鋭い。彼の墓碑銘*3にもあるようにスタンダールは恋愛の多い男であったが、美貌のジュリアン・ソレルや、あるいはサンセヴェリーナ侯爵夫人やクレリアに愛された『パルムの僧院』のファブリスとは違い、実らない恋の方がむしろ多かったようである。恋に苦労しない色男よりも連れない女を追いかける男の方が恋愛小説家に向いているかどうかは別として、少なくとも書くためのエネルギーとなっていたには違いない。スタンダールの死後、彼の作品が再評価された後の今日ではスタンダールの生涯や著作の研究が進んでおり、それこそ彼の愛人や片想いの相手まで当時の書簡などから明らかとなっているが、『赤と黒』を書くにあたって参考にしたと見られる実在の事件や、影響を受けた作品などもよく知られている。実は『赤と黒』のプロット自体、実在の事件から大部分を借用しており、家庭教師がその家庭の夫人と恋仲となるが、それが露見して家を追われ、恨んだ家庭教師がその夫人に向けて発砲するという筋書きにはモデル(「ベルテ事件」*4)がある。また、「人の家に上がりこむ偽善者」というモチーフは彼の憧れた大戯曲家であるモリエールの『タルチュフ』に想を得ており、スタンダールもそれを隠さない。小説のプロットを実在の事件から借りること自体は珍しくないが、スタンダールに関しては、評論家によってニュアンスは異なるものの、物語を次々と生み出していくバルザックのような創作の才をもたなかったという点では見解が一致している。定職につかず文壇に出入りしていた期間もあったが、職業作家ではなかったスタンダールは、陸軍の経理補佐官としてそれなりの出世を果たしたり、(その後王政復古による失職期間を経て)外交官としてローマ郊外のチヴィタヴェッキアに赴任するなど実務家としての顔を持ち、自ら政治的激震を立て続けに経験した時代の最中に生きながら、生涯一貫してしばしば熱烈な恋に落ち、また読書や観劇を好み、小説のみならず自伝や紀行文、批評文、翻訳、あるいはそれらを混合したような様々な形で、彼が目にした時代の様相や芸術について文章にしてきた*5

恋愛などの人間関係の中にある人間の心理を描いた小説は、小説で扱う世界が作中人物らの関係性のみで完結する箱庭的なものが少なくないが、『赤と黒』では主人公のジュリアンのみならず、レナール氏や夫人、ヴァルノ氏、ピラール神父、ラ・モール侯爵、マチルドなど『赤と黒』の登場人物はみなそれぞれが当時の政治的・経済的条件と分かち難く結びついている。先に触れた通りスタンダールは創作の天才ではなかったため、彼の人格と彼自身が経験し観察したものをほとんど全て小説の中に置いていく必要があったが、彼がそれらから夢見たものは大岡昇平のようなスタンダールの熱狂的なファンにとってさえも、あまりにロマネスク (批判的な意味で「小説的」であること) に感じられた。しかし、民衆の怒りがブルボン朝を打ち倒し、コルシカ生まれの砲兵士官が全ヨーロッパを震撼させた後の世界において、想像力の翼はより自由に羽ばたけたのも事実であろうし、またそうであったからこそ個人を制約する社会の様相もより強く感じられていたに違いない。加藤周一はかつて、「時代の条件、あるいは一世代の現実は、その受容や描写よりも、それを批判し、拒否し、乗り越えようとする表現の裡に、またその表現の裡にのみ、抜きさしならぬ究極の性質をあらわすのである」*6と書いたが、モリエールにもナポレオンにもなることのなかった恋多きこの共和主義者は、彼が辟易としていた王政復古後の時代においてありえたかもしれない人間を、彼の極めて優れた観察眼と洞察力で小説の形に結晶させた。結果的にそれは、ありのままに存在する人間をありのままに描写してみせるよりも、遥かによく時代の条件を浮き彫りにしている。

目を通した本の紹介
スタンダール赤と黒』上巻・下巻(新潮文庫
スタンダールパルムの僧院』上巻・下巻(岩波文庫
スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』上巻・下巻(岩波文庫
モリエール『タルチュフ』(岩波文庫
ルイ・アラゴンスタンダールの光』(青木書店)
エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』下巻(ちくま学芸文庫
サマーセット・モーム『世界の十大小説』上巻(岩波文庫
大岡昇平『わがスタンダール』(講談社学芸文庫)
芥川龍之介谷崎潤一郎文芸的な、余りに文芸的な・饒舌録』(講談社文芸文庫
加藤周一 『日本文学史序説』下巻 (ちくま学芸文庫)

*1:「組み立てと云う点で近頃私が驚いたのは、スタンダールの"The Charterhouse of Parma"である。この小説は英訳で五百ページからある。日本語にしたら千ページにもなる長編で、ワーテルローの戦争から伊太利の公国を舞台にしたものだが、話の筋は複雑纏綿、波瀾重畳を極めていて寸毫も長いと云う気を起こさせない。寧ろ短過ぎる感があるほどに圧搾されている。書き出しからワーテルローの戦場までが幾らか無味乾燥な嫌いはあるが、しかし元来スタンダールと云う人はわざと乾燥な、要約的な書き方をする人で、それが此の小説では、だんだん読んで行くうちに却って緊張味を帯び、異常な成功を収めている。」

*2:「私はウォルター・スコットの描写とルソーの誇張をほとんど同じ程度に嫌っているのだ」(『アンリ・ブリュラールの生涯』 第三十二章)

*3:「ミラノ人 アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」

*4:1827年に元神学生のアントワーヌ・ベルテがミシュー・ド・ラ・トゥール夫人に銃を発砲し大怪我を負わせた事件。ベルテはミシュー・ド・ラ・トゥール家の家庭教師であったが、夫人と愛人関係になったため家を追い出されていた。尚、その後ベルテは神学校に入ったがやがて放校となり、別の家で家庭教師となったが、そこでも同家の娘と恋仲となり、またも家を追われている。自分の不幸をミシュー夫妻のせいと逆恨みしたベルテは夫人を狙撃し、死刑を宣告された。

*5:スタンダール (Stendhal) というのはペンネームで本名はマリー・アンリ・ベール。1783年にフランス・グルノーブルで弁護士の父と名家出身の母の間に生まれ、幼少期はかなり恵まれた生活をしている。数学の成績が良かった彼は16歳の頃、パリの L'école polytechnique (理工科学校) の受験のためにパリに上京するが、フランス革命直後のパリに馴染めず神経衰弱を患い受験を断念。母方の親戚の口利きで軍人となり、ナポレオンのイタリア遠征軍に参加しミラノに入城するが、この滞在でスタンダールは美しい風土や人々の情熱に魅せられ、終生熱烈なイタリア礼賛者となった。軍には二年ほど所属したが、真面目な軍人とは程遠くもっぱら読書と観劇、そして恋愛にうつつを抜かしていたようで、軍を辞めた後も同棲していた女優の巡業に合わせて一時マルセイユに滞在したことさえある。パリに戻った23歳のスタンダールはやはり親戚の伝手で陸軍の経理補佐官に着任し、その後順調に出世したものの、1814年のナポレオンの退位・王政復古により職を失ったためミラノに渡った。その後、1821年にオーストリア政府からの国外退去命令によりパリに帰還するまで物書きとしてミラノで過ごす。パリに戻った後の約10年の間は、文壇に出入りしいくつかの紀行文や評論、小説を書くが、その中で最も重要なものが1830年11月に出版された『赤と黒』である。1830年七月革命により外交官として取り立てられたスタンダールトリエステ駐在フランス領事に任命されるが、オーストリア政府から許可が下りずローマ郊外の港町であるチヴィタヴェッキアに赴任する。この職は亡くなるまで続けていたが、外交官としての生活は暇であったようで、自伝の『アンリブリュラールの生涯』を書いているし、度々休暇をとってパリに戻っている。『パルムの僧院』は1839年に休暇中のパリで書き上げた。1842年、休暇中のパリで倒れ59歳で死去。

*6:日本文学史序説・下巻

『テレーズ デスケルウ』

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普段あまり小説を読むのが好きだと人には言わないのだけれども、たまたま何かの拍子に文学が話題に上ったときには否応なく好きな小説は何かという話になってしまう。個々人の好き嫌いなど取るに足らない問題であって古今東西の言葉の芸術がどう発展してきたかということこそが云々…と能書きを垂れたくなるのは、額面通りそう考えているところもあるけれども、自分の性格を見透かされそうな心持ちがして真面目に答えるのがこっ恥ずかしいというのもある。実際のところ好きな作品は色々とあるが、その中でも個人的に特別扱いをしたくなる作品を一つだけ挙げるとすれば『テレーズ デスケルウ』だろうか。『三四郎』や『ジャン・クリストフ』などと同じで主人公の名前がそのまま作品名になっているこの小説は、フランスのノーベル賞作家フランソワ・モーリアック1920年代に書いた小説で、私が初めて読んだのは10年ほど前になるが、それ以来ずっと強烈に記憶に残っている。モーリアックは少なくとも最近はあまり読まれる作家ではないだろうが、おそらく1900年代の中頃まではフランスの文豪として日本でもある程度読まれたのだろうと思う。国語便覧的に言えば、「(カトリック)信仰と肉欲の相剋」「伝統・因習に取り込められた個人」などが作品テーマと言える作家なので、現代の日本人にとって切迫した問題を扱っているようには見えないかもしれない。とは言えど、テレーズという人間の底の知れない魅力や小説としての完成度の高さは誰から見ても明らかであり、日本の作家に与えた影響も小さくないようだった。戦前、堀辰雄がこの作品に憧れて『菜穂子』を書いているし、戦後には三島由紀夫がこの作品からインスピレーションを受けて『愛の渇き』を書いた ( *1 ) 。また戦後の日本でモーリアックの名が広く知られるようになったのは遠藤周作によるところが大きいと思われるが、『テレーズ デスケルウ』の翻訳者でもある彼の本作品への執着は中々のもので、彼がフランスのリヨンに留学していた頃にこの作品の舞台を一目見たいという一心でボルドー郊外のランド地区にある松林と砂地しかないような村に足を運んでいるおり ( *2 ) 、また彼の晩年の小説『深い河』の中でもテレーズに直接の言及がある、というか似たような女の人を登場させてしまっているほどである。遠藤周作に関して言えば、彼はカトリックの家庭に生まれた「カトリック作家」であるのだからこの作品に魅入られたとしても自然の成り行きと思えなくはないが、モーリアックの文学はいわゆる護教文学の類ではなく、むしろ救われない心の孤独や闇をそのままに描き出したものが多く、それがキリスト教圏の評者に言わせれば「神の不在に苦しむ人間」ということではあるが、人間の孤独は何もクリスチャンの専売特許ではなかろう。確かにモーリアックに限らず我々が西洋の文学作品を読むときは、漱石三四郎ハムレットの劇を観て抱いたような違和感 ( *3 ) を持ちうるし、読み落としてしまう暗喩の類もあり得るだろうが、『テレーズ』に関しては少なくともその主題は異なる文化的コンテクスト持つ読者を排除しないし、作者の卓抜した手腕は言うまでもなく容易に時代や国境を超える。

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小説の舞台はフランス、ボルドー郊外ランド地区のアルジュルーズという村で、広大な荒地と松林が広がるド田舎だ。私は遠藤周作のように訪れまではしなかったがGoogle Mapsストリートビューで見てみると見事に何もない。小説は主人公のテレーズが裁判所から出てきて、父親のラロック氏に連れられて帰途につく場面で始まる。テレーズは夫 (ベルナール) の毒殺を企てた罪で訴追されたのだが、家の体面を守りたい夫の偽証によって免訴となったのだ。裁判所から鉄道、馬車と乗り継いで帰途につく間、テレーズは夫に自分の行動の動機を夫にわかってもらうための手掛かりを探すように、少女時代の出来事から順に、友人のアンヌとパリから来たユダヤ人青年との恋や、アンヌの兄であるベルナールとの結婚、夫との結婚生活、子供の出産、そして夫を毒殺しようとしたことを回想する。これが小説の前半だ。そして小説の時間は「今」に戻り、テレーズが家に到着した後、家の体面を守るためにこの事件を事故として揉み消した家族はテレーズが精神錯乱状態にあるとして、彼女を自宅に幽閉する。家の中に閉じ込められ、行動の自由も許されないテレーズはみるみる衰弱してゆくが、それに見かねたベルナールは毒殺未遂の噂も村から消えた頃、一人で暮らさせるために妻をパリに送り届けるところで小説は終わる。

テレーズのラロック家も、ベルナールのデスケルウ家も財産のある地方の名士でテレーズは経済的に不自由なく暮らしている。またベルナールは元から暴君というわけではなく、良識のある、大学教育を受けた、平日は狩猟に興じ休日は教会に通うような、至極まともな男である。そんな不自由ない世界の中でなぜテレーズが夫を毒殺しようとしたのかはっきりとは書かれない。夫の偏狭な価値観と自己満足に耐えられないであるとか、夫が彼女の知性にまともに向き合わないことに嫌気がさしただとか、新婚旅行で訪れたルーブル美術館でガイドブックと目の前の絵を突き合わせながら歩くような俗物の夫を許せないであるとか、夫との性行為に何の悦びも感じられないどころか苦痛であったことだとか、夫の家族と反りが合わないだとか、生まれてきた子供も彼女の救いにならなかっただとか、小説の中で一つ一つが見事に描かれるが、いずれの中にもテレーズははっきりとした自分の行動の動機を見出してはいない。1920年代のフランスでは、因習は現代よりもさらに重苦しく、女性の人格は軽んじられ、古い家ならば自由な恋愛から結婚というわけにもいかなかっただろう。しかしこれらを取り去ったとしても、彼女を締め上げる社会規範は依然存在し続けるだろうし、そのコードの中でしかものを見ない人間に取り囲まれることの深い孤独と不安は消えはしなかっただろう。小説の最後にパリのカフェで、和解のような雰囲気の中で夫ベルナールは「「あれ」の理由はなんだったんだ」とテレーズに問いかけるが、テレーズは「あなたの家の松林から取れる松脂の利益を独り占めしたかったから」と答える。おそらくは、あなたの持つ文法で読み解けるような答えが欲しいのならばくれてあげるわという諦めと、単純で乱暴な社会規範の中に埋もれて生きればもしかすると自分は救われるのではないかという祈りを込めて。ベルナールは「最初はおれもそう思ったのだ」と言いつつも釈然としない様子で、するとテレーズは「あなたの目の中に不安と好奇心を見たかったのよ」と言葉を継ぐが、「才女ぶった」その言葉は彼に理解されず、「人形のように生きたくなかった」という彼女の想いはパリの風の中に消える。人間の奥底にある闇や不安であるとか、生の倦怠であるとか、それにどう名前をつけようが彼女の行為の理由を汲み尽くすことはできないだろう。そもそも単純明快な言葉で汲み尽くせるような行為など、ありはしないのだ。殊に内省的な人間は、行為に明確な理由があると信じて止まない人間に、その心の動きをうまく言葉で説明することができない。しかし、人は否が応にも自分の生きる社会のコードに則った理由づけを常に求められる。現代であっても、なぜこの仕事をしているのか、なぜこの相手と結婚したのか、なぜ子供を持ったのか、その理由を問われたところで、その行為や不行為に至るまでの心の動きを全て汲み尽くすことができるだろうか。殺人や自殺ほど切実に他者からその動機を問われるような行為に立ち会うことが日常生活では稀であるため、言葉で捉えきることができない人の心や、自分の心さえ捉えきることができないという不安を、見て見ぬ振りをしてはいないだろうか。それは果たして誠実な態度なのだろうか。たしかに「過度な誠実さは内省に導き、内省は懐疑に導き、懐疑はどこにも導かない」( *4 )けれども。モーリアックの凝縮された文体は、スタンダールの小説に見られるような語り手による主人公の心理の実況中継や、葉っぱの葉脈一本すら書き落とさないかのようなフローベールの写実の力量によってたどり着くものとは異なるものを明らかにする。テレーズの眺める風景や、彼女と彼女を取り巻く人々との関係の本質的な部分のみを書き出すことで、小説の丸ごと全体が「なぜテレーズは毒を盛ったのか」という行為の理由を示している。おおよそ人の心の中にある不安や衝動は「2 x 2 = 4」( *5 ) のような一筋の理路によって説明されるのではなく、物語られ、示されるのでしかないという立論の証明を、モーリアックは彼の小説の技法の成功に託しているのだ。そしてその労苦を伴う試みは、堀辰雄が激賞しているように ( *6 ) 素晴らしく結実している。前半でハムレットに当惑する三四郎の一節などを引いてしまったものだからキリスト教の話を意図的に避けてきたが、人間は人間の魂を捕まえることができなくとも創造主であれば全てを知りそして赦すだろう、という希望を取り上げられた人間が叩き込まれる場所の風景を明らかにすることが、モーリアックの目指したところであった ( *7 ) 。そしていま、あらためてモーリアックが『テレーズ デスケルウ』の冒頭で掲げたボードレールの詩句を眺めると、まさにこの小説の入り口を飾るに相応しい言葉として際立っている。

≪主よ、憐憫を垂れ給へ、願はくば心狂へる男女の群れに憐憫を垂れさせ給へ!おお造物主よ!何故にそれらが存在し、如何にしてそれらが作られしかを、及び如何にしてそれらが作られずしもありえしかを知り給へる、唯一人なる者の御眼にまでは、そも怪物とは存在しうるものでせうか… ≫ ( *8 )

目を通した本の紹介
フランソワ・モーリアック『テレーズ デスケルウ』(講談社文芸文庫
フランソワ・モーリアック『テレーズ デスケイルゥ』 (新潮文庫)
フランソワ・モーリアック『モーリアック著作集2』 (春秋社)
堀辰雄『菜穂子 他五篇』(岩波文庫)
堀辰雄『ヴェランダにて』 (オンラインの青空文庫)
三島由紀夫『愛の渇き』 (新潮文庫)
遠藤周作『深い河』(講談社文庫)
遠藤周作『フランスの大学生』(新風者文庫)
遠藤周作『私の愛した小説』 (新潮文庫)
夏目漱石三四郎』(新潮文庫
フョードル・ドストエフスキー地下室の手記』(新潮文庫
フランソワ・モーリアック『愛の砂漠』 (講談社文芸文庫)
ポール・ヴァレリーヴァレリー・セレクション 上』 (平凡社ライブラリー)

*1:堀辰雄の『菜穂子』は正直なところ傑出した小説とは言い難い。彼の芸は、信州の自然と病(結核)のイメージを彼の詩的文体と美意識でもって文学に昇華させる技量に拠っており、「本格的な小説を書いてみたかった」という芸術的野心を叶えるには彼の一生は短すぎた。一方、三島由紀夫の『愛の渇き』は、モーリアックに影響を受けたとは言いつつも、原形を留めないほど彼一流のやり方で換骨奪胎しているのでそれはそれとして面白いように思う。

*2:このあたりの執着の度合いは遠藤周作のエッセイ『フランスの大学生』や『私の愛した小説』に詳しい。特に『フランスの大学生』では、1950年代のフランスにおける文学の潮流が遠藤と現地の学生との議論を通じて垣間見ることができ興味深い。

*3:三四郎ハムレットがもう少し日本人じみた事を云って呉れれば好いと思つた。御母さん、それぢや御父さんに済まないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出して呑気に遣つて仕舞ふ。」(夏目漱石/『三四郎』)。

*4:ポール・ヴァレリーの『言わないでおいたこと』より

*5:モーリアックも影響を受けたドストエフスキーの『地下室の手記』より。この小説で展開される議論において、こことそう遠くないであろう文脈において使われる。

*6:「この可哀さうな毒殺女の氣持のよく描けてゐることと云つたら!恐らく讀者には、テレェズ自身よりも、彼女の夫を毒殺するに至るまでの心理が、はつきりと辿れるのだ。何故ならテレェズには、彼女自身のしてゐることを殆ど意識してゐないやうな瞬間があるのだが、さういふ瞬間でさへ、讀者は、彼女がうつろな氣持で見つつある風景や、彼女の無意識的な動作などによつて、彼女がその心の闇のなかでどんなことを考へ、感じてゐるかを知り、感ずることが出來るのだ。――こんな工合に讀者を作中人物の氣持のなかへ完全に立ち入らせてしまふなんて云ふのは、君、大した腕だよ。それがこれほどまでに成功してゐる例は滅多にあるものぢやない。」(堀辰雄 / 『ヴェランダにて』)

*7:「私の作中人物は、ある特別な一点にかけて、現代のさまざまな小説の中に生きている他のほとんどすべての人物とは違っています。それは、私の作中人物たちが、自分は魂というものがあると感じている点です。何しろニーチェ以後のヨーロッパには、神は死んだというツァラトストラの叫びのこだまがまだ聞こえていて、その恐るべき結果はまだきわめ尽くされていないのですから…」(フランソワ・モーリアック / 『愛の砂漠』 (講談社文芸文庫) 巻末の若林真の解説よりモーリアックの言葉を抜粋)

*8:ボードレール / 三好達治訳『巴里の憂鬱』