様々な読書

年が明けてから少し時間があったので読書が捗った。今年はなるべく早めに『テヘランでロリータを読む』を読みたいと思っていたのだが、章立てを見てみると第一章が「ロリータ」、第二章が「ギャツビー」、第三章が「ジェイムズ」、第四章が「オースティン」とある。各章のタイトルを作家名で統一するなら第一章は「ナボコフ」に、第二章は「フィッツジェラルド」にした方が良かったのではと思うが、まぁそれは置いておくとして、こういった「本について語る」系の本はその中で言及されている本について知っていないと今一つ楽しめないので、なるべく事前に作品を履修しておくようにしている(そんなことを言っているとアウエルバッハの『ミメーシス』などは一生読めないことになるので、あの本は気になる章だけつまみ食いしている。)。既に私は『ロリータ』も『グレイト・ギャツビー』も読んでいたし、ジェーン・オースティンも『高慢と偏見』と『マンスフィールドパーク』は読んでいたのだが、問題はヘンリー・ジェイムズで、彼の本は一冊も読んだことが無かった。パラパラと「ジェイムズ」の章をめくってみるとどうやら『デイジー・ミラー』を読んでおけばとりあえずなんとかなりそうだったので、まずは新潮文庫の『デイジー・ミラー』に取り掛かることにした。
ヘンリー・ジェイムズ(1843 - 1916)はアメリカ生まれの作家だが、裕福な生まれだった彼は少年時代から何度もヨーロッパ旅行を経験しており、また30代の頃にロンドンに移住しているので、生涯のうち欧州で過ごした時間の方が長かったようである。『デイジー・ミラー』は19世紀末における「奔放なアメリカ娘」が「因習にとらわれた保守的な欧州人」から白眼視されるのを「欧州で過ごしている米国人」であるウィンターボーンが観察しているという構図だ。正直なところ、対立図式が単純で小説が短いので、骨組みの理屈しか残らないスルっとした読後感になりがちな作品だと思うが、これは私が男性であるからこそケチらず余分に想像力を発揮すべきだったという話な気もする。そうは言っても、この『デイジー・ミラー』が重厚な作品ではないことは確かなので、複数作品しっかり読んでジェイムズの描きたかった世界を立体視すべく『ワシントン・スクエア』と『ロデリック・ハドソン』を買った。そういえばちなみにフィッツジェラルドの『グレイト・ギャツビー』も実は私はあまり隅々までしっかり覚えているというわけでもなくて、近々再読しようと思っているのだが、同じ訳で読むのもつまらないので村上春樹訳を買ってしまった。そう、これが積読が増えていくメカニズム。
そして一応こうしてヘンリージェイムズも読んだので『テヘランでロリータを読む』に取り掛かった。著者のアーザル・ナフィーシーは親戚に学者や政治家がたくさんいるイランの名門一家の出で、父がテヘラン市長であり母は国会議員だった。本人も13歳からアメリカに留学し大学教育を受けており、典型的な「西洋化したエリート」である。米国にいたときには左派の活動家に対する並々ならぬ共感があったようだ(デモには頻繁に参加していたと本書にも記載がある)。そんな彼女は1979年のイラン革命と同時に祖国に戻ったわけだが、そこで彼女は「米国資本と癒着したパフレヴィー朝の打倒」という左派的な理念のあった革命が、やがてホメイニが主導する抑圧的なイスラム革命一色へと変わっていくのを目の当たりにする。その後、宗教勢力に牛耳られた革命政権による監視、不当な逮捕、恣意的な裁判、そして投獄や処刑といった全体主義的な抑圧と、革命後に勃発したイラン・イラク戦争の混乱に飲み込まれていく。イランに帰国してからしばらくはテヘラン大学で文学を教えていたが、女性のヴェールの着用の強制など、女性差別的な規範にもとづく規則の押し付けを拒絶し、大学を去る。この本は彼女が大学での職を辞した後に、彼女の生徒の中で特に優秀で文学への情熱をもった学生達相手に自宅でおこなった秘密の読書会を軸とした回想録だ。なので、この本では『ロリータ』や『高慢と偏見』などに関して厳密な読みが展開されるというよりも、人間の尊厳がグシャグシャに踏み躙られていた頭脳明晰なイラン人女性達にとって、小説を読むということはどういうことなのか、物語にどういう力があるのかが語られている。具体的には『ロリータ』のハンバート・ハンバートの中に、生身の人間に観念的理想を押し付けることのグロテスクさを見たり、『デイジー・ミラー』の中に社会に反逆すること、支配的な価値観に異を唱えることの勇気を見出すわけだが、著者も書いているとおり、抑圧された状況であればあるほど想像力を働かせ登場人物に共感するということが生きる力につながるのだ。このような文学の読み方はある意味単純というか、文学の価値を肯定しようと試みるときにもっと違った光の当て方はいくらでもできるのではあるが、過酷な状況がそこにあり、その中で文学を読むことによって実際に救われた心があったことが、誰もが知る英米文学の名作とともに語られているということで、それ自体十分読まれるに値する面白い書物だったと思う。

雑記 (2021年下半期に読んだ本)

少し気が早いが読みかけの本はいずれも年をまたぎそうなので、少し早いが恒例の読書記録の2021年下半期版を投稿する。今年の読書で最も自分にとって重要だったのは何よりプルーストの『失われた時を求めて』全14巻なのだが、予復習がてらその前後に関連する本も数冊読んでいる。『失われた時を求めて』の全巻読了前に読んだのは以下の新書2冊で、いずれもこの小説の翻訳も手掛けている一流のプルースト研究者が書いた本なので内容は非常に良い。テーマがコンパクトに解説されているので、小説そのものを読むつもりはないがどういった内容かくらいは知りたい、というような人にはおすすめできる。

また、関連本のうち本作読了後に読んだのは以下の2冊。

これら2冊は面白かったのだが、どちらかと言うとあの小説を全巻を読破した人間が満足感(とちょっとした優越感)に浸りながら、確かにこういう部分があったな、なるほどこういう読み方もあるね、といった具合に楽しむ本だと思う。個人的には『プルーストと過ごす夏』は文学者や哲学者、美術史家などの7人が各々の専門やプルーストの読書経験を踏まえたエッセイを書いており面白かった。またちょうど文芸雑誌の文學界が2021年10月号で「プルーストを読む日々」という特集を組んでおり、14人の書き手が岩波文庫版の本作全14巻について一人一巻ずつ担当して書いたエッセイが掲載されていたのでそれもざっと目を通した。実はまだ他にも2, 3冊関連本は積んだまま残っているのだが、これは来年以降気が向いたら読もうと思う。

小説以外の読書については、今年は芸術史や美学に関するものが多かった。芸術について個人的な思い出や考えたことの整理は近々文章にまとめようと思っている。入門的な芸術史の本として読んだのは以下の4冊。『近代絵画史』の上巻は上半期に読了した本の中に入っている。岡田暁生の本はいずれも面白くすっかりファンになったので他にも数冊買い込んでしまった。最後の『現代美術史』は丁寧な入門書なのだがいかんせん現代美術は独特なので後半部分は流してしまった。

美学については上半期に小田部先生の『美学』や『西洋美学史』を読みながら都度カントの『判断力批判』やアリストテレスの『詩学』を拾い読みしながら考え事をしていた。下半期は美学についてはあいかわらずカントをたまに気が向いたときに読み返したり、ヒュームのエッセイなどを読みながら、それに加えて以下の本を読んだ。

個人的には第八章「あなたは現代派?それとも伝統派?」の議論に興味があって、勢いでダントーグリーンバーグの本を買ってしまったもののそこまで手が回らず、積読化。一方、階級と趣味判断の関係について論じており、カントの『判断力批判』の批判でもあるブルデューの『ディスタンクシオン』は読んだ。

正直なところ、社会学のプラクティスにあまり興味がないのと文章がやたら読みづらいのとで、主にいわゆる趣味判断に関する議論が整理・要約されている最初の「趣味判断の社会的批判」と、カントの『判断力批判』批判が展開されている最後の付録「追記「純粋批評の「通俗的」批判のために」を気合いを入れて読んで、社会学的な理論構築的な部分やアンケート調査などによる実証的な検証の部分は流して読んでしまった。この本は面白いものの、思うところは色々とあるのでそれはまた別途文章にしたい。ここで紹介されているデリダ判断力批判の読解にはちょっと興味が湧いたが、たぶん沼なので手は出さない。

以上と関連するところで、美学や趣味論だけでなく現代のコンテンツ論にも関心が湧いてきたので東浩紀の以下の本2冊と、先行研究的位置づけの本を1冊読んだ。あとは、『ディスタンクシオン』はフランスにおける階級の話なので、では戦後日本では教養や文化資本についてどういった議論の整理が可能なのか、的な関心から『教養主義の没落』を読んだ。

東浩紀の本を初めて読んだけれど、議論の展開が上手だし手際が良いなと思った。そもそも取り上げられているコンテンツについて私に知識や消費体験の蓄積がかなり乏しいので詳しければもっと楽しめただろうとは思う。理屈を追う上で必ずしも必要ではないが。

そして、最近能をちゃんと観ようと思い立ったので色々と本を買って勉強をしようと思っている。大学生の頃何度か行って好きだったのだが、ずいぶんとご無沙汰している。年末に予定があるし、来年は複数回行きたい。

著者の松村栄子は1991年に芥川賞をとっている作家なだけあって文章がとても上手で、能への愛情が伝わってくる。

冊数を数えても意味はないのだが、2021年は合計41冊。年間100冊近く本を買ってしまうので、部屋の積読は増える一方である。

『失われた時を求めて』

失われた時を求めて』は大学生のころに一度挫折している。それも第一篇「スワンの家の方へ」の第一部「コンブレー」を読み終えたところで早々に頓挫した。昨年岩波文庫から吉川先生の新訳が出てフェルメールの「デルフトの眺望」をあしらった美しい化粧箱入りの全14巻を購入したことをきっかけに、10年ぶりにあらためて再度アタックを試みたところ案外読み進めるのが苦ではなく今年の頭からコツコツ読み進めて今日漸く読み終わった。10年越しのリベンジが意外とスムーズだった理由はいくつかあると思っている。
一つは読書時間の使い方に対する意識の変化で、学生当時はこの長い長い小説を何カ月もかけて読むのは時間が勿体ないと思ってしまった。読まなければいけないと思っていた未読の小説が山ほどある中で、数カ月分の可処分読書時間を『失われた時を求めて』だけに使うことに抵抗があった。学生の間に名作をなるべくたくさん読み切らねばという気負いというか焦りみたいなものがあったため、『失われた時を求めて』は当然読むべき名作のリストには入っていたものの、もっと手早く読める他の作品で数をこなしたいと思ってしまっていた。大学院を卒業して10年経った今はいわゆる必読書のような小説は(まだまだ未読のものはあるが)それなりの作品数を既に読めているし、また案外働き始めてからも自分が諦めなければ読書は楽しめることを知っているのでそこまでの焦りはない。なのでじっくり腰を据えて一年間かけて読み進めることに抵抗はなかった。
二つ目はこの作品が扱っているコンテンツとの相性。この小説が扱っているテーマは極めて多岐に渡っているが、やはり芸術に対する執着心のようなものがあると大いに楽しめる。もっとも、若いころに芸術への関心が薄かったかというとそうではないが、芸術が生きるために必要だと衒いなく自然に思えるくらいに芸術に触れ考えを巡らすには私にはもう少し時間が必要だった。絵画に引き込まれた経験、折に触れ頭の中で流れる音楽、建築物に息を呑んだ瞬間、作家への敬愛、そのような記憶のストックがある程度の分量ないと、プルーストが同じようにそれらを取り出して文章にしてみせることへの関心を維持できない。
三つ目はより広く人生経験的な話で、恥ずかしいような自分の気持ちや過去の行動も含めて丹念に復元していくことの価値は、おそらく若すぎると理解できない。自分が抱いた感情、とった行動、考えたことが自分の確固たる所有物でなく、時間の経過によって失われ、変容し、手から零れ落ちていくものだという実感、取り返しのつかなさへの気づきがあって初めて、プルーストが生涯をかけておこなった彼の記憶の復元に価値を見出すことができる。プルーストのような、言ってしまえば金持ちのブルジョアで病弱で引っ込み思案なマザコンに感情移入するような読み方はできない。そんな彼のであっても幼少期から彼が五感と思考で経験したことの本質を見事に復元したとすれば羨ましいことであるし、彼が復元した陶片の中に、自らが経験したことと似た紋様を見出すことができる。20代の人にとっては、マザコンブルジョワなどよりも、材木屋の倅のボナパルティストの方が感情移入しやすいだろう。
語り手の記憶とそこから引き出される想念とが数珠つなぎになって延々と続いていくようなこの小説を読んでいると、自分の記憶にもすっと手を触れられたような心持がすることがある。父や母やに抱いていた感情、まだ形にならない異性への恋、芸術作品に触れたときの戸惑いなど。世紀末のフランスのブルジョワの回想であるのに、どうして自分でも忘れていた心の中を探られるような気持になるのか。プルーストに偉大な感情はないが、あまりに詳細かつ膨大にそれが続くために、時と場所を超えた読者にもどこか懐かしい気持ちを起こさせる。そんな経験をできる作品も中々他に無いため、文学を愛する人間としては読んで良かったと思う。

雑記(2021年上半期に読んだ本)

小説は今年は『失われた時を求めて』を読み終えるまでは他に手を出さないと決めているので岩波文庫版でコツコツと読み進めている。昔ちくま文庫で挫折したのだが(つまり私の家には『失われた時を求めて』が2セットもある。)、岩波文庫の方は注記がわかりやすく丁度半年で7巻まで読了したため、年末までには全14巻読み終えるペースである。感想は読み終えたところで年末にでもゆっくり書き残したいと思う。が、既に同書に関する関連書籍を5, 6冊仕入れてしまっているのでそれらを読もうと思うと2022年も半ばになりそう。

メモを見返すと他には仕事に関連して読んだ書籍を除いて以下のような本を読んでいた。

『偶然と必然』(ジャック・モノ―)

遺伝子発現の制御に関するオペロン説や酵素のアロステリック調整などの発見で有名な、高校生物の教科書でもお馴染みのノーベル賞学者、ジャック・モノ―の科学に関するエッセイ。東大の佐藤直樹先生が『40年後の「偶然と必然」』という本で詳解しているのを最近本屋で見つけたのでそちらと合わせて精読したいと思っている。生命とは何かというトピックは最新のものから、モノ―のようなレジェンドの書いたものまでなるべくカバーしたいと思っている自分の中の重要テーマ。

『精神と物質』(利根川進立花隆

先日亡くなったジャーナリストの立花隆によるインタビュー。利根川進ノーベル賞を受賞した直後から彼の周りにむらがってくる普通の新聞記者があまりにも不勉強で鬱陶しいのでちゃんと勉強しそうな人から長めのインタビューを受ける、ということにしたというのがきっかけでできた本とのこと。利根川進が上記のモノ―なんかをはっきりと意識していた分子生物学者(免疫学者でなく)ということは不勉強であまりピンときていなかった。インタビュー通して感じたのは、重要な発見をする人は、「重要な発見をしなきゃならない」と思っているものなのだな、という感想。本の中でも揶揄されていたが、特に生物学だとAという種で発見された仕組みがBという種でもありました、でも一応論文にはなるわけだが、あまり意義はないだろう。

『探求する精神』(大栗博司)

一流の物理学者による半生の回想録。似たような憧れや問題意識や好奇心を持っても、搭載している脳みそのスペックが違うとこれだけ見えてくる景色に差が出るのだなと落ち込む本。面白いのですけれどね。

『科学を語るとはどういうことか』(伊勢田哲治・須藤靖)

体系だった科学哲学の教科書ではなく自然科学(物理学)の研究者が科学哲学の専門家に議論・疑問をぶつけていくというもの。 この手の議論はもっと雑なレベルで大学生の頃にもよくしたものだけれど、科学についても哲学についても知的体力不足によって自分の中でケリのついていないテーマである。勉強すべきことは多い。

『西洋美学史』(小田部胤久)

美術史ではなく美学史。美しいとは何か、芸術とは何か、という問題は私の中で一、二を争うくらい長年の思考テーマ(の割に判断力批判を通読していないのだが)。プラトンから始まり、現代のダントーらまでカバーされており教科書としてとても優秀。

『美学』(小田部胤久)

上記の姉妹本。専らカントの第三批判である『判断力批判』の解説に重点が置かれた本。カントの理路を正確に追い切ることが私の目的ではないものの、曲解しても仕方ないのでこの本などを使いながら第三批判ときちんと向き合うべきかと悩んでいる。

詩学』(アリストテレス

美学に関連して。悲劇や喜劇、叙事詩に関して、その構成や内容がどうあるべきかなどをアリストテレスが整理したもの。これもあまり厳密に追うつもりはないがこれで「ミメーシス」という言葉を心置きなく使える…だろうか。

『近代絵画史(上)』(高階秀爾

 だいぶ昔に一度読んではいるのだが、カラー版が出ているのに気付いたため買いなおしたついでに再読中。外国の美術館に行きたくなる。

 『哲学入門』(バートランド・ラッセル

これは読みやすいので、さらっと読めばよいのだが、ラッセルは『西洋哲学史』や『数理哲学入門』を読まないと、という話。そしてまず哲学に関してはきちんと純粋理性批判を読まなければという長年の宿題を後回しにし続けている。

『集合への30講』(志賀浩二

集合・位相の勉強をしてみたいと思い立って、教科書を買ってみたもののとりあえず取っつきやすい本から読もうかと思い手を出してみた。数学は雰囲気だけじゃ意味ないので教科書を読もうと思う。

エマニュエル・トッドの思考地図』

軽いエッセイ。頭の良さにも色々な種類があるのだという本。フランス人の学者の割に哲学が嫌いというのが面白かった。あとこっそりブルデューを馬鹿にしている(自明な結論のためにデータ集めをしているので仕事がつまらないとのこと)。ディスタンクシオンは美学との関係で読むべきか、と悩んでいるものの長いので購入すらしていない。

小説を入れて全部で18冊。実は今年の上半期は仕事がかなり多忙で体力的に厳しかったものの、うまく時間を見つけて読書の時間を取れたほうだと思う。

雑記(2020年下半期に読んだ本)

投稿が読書記録ばかりになってしまっているが、この半年で読んだ本のメモ書き。

  • 『会社はこれからどうなるのか』(岩井克人)
    岩井克人先生といえば『ヴェニスの商人資本論』が有名だが、そちらは家の書棚になかったので、書棚にあったこちらを読んだ。「会社は誰のものか?」という古くて新しい問いに丁寧に答えることを試みた本。ここ数年のコーポレートガバナンス改革の活発な動きとそれに呼応したアクティビストと呼ばれるヘッジファンド等の動向は実務家の私にとっても直接的に関係のあるトピックではあるが、目先の対応や個社の戦略論から一歩引いて理論的に考察するための枠組みも持っておきたい分野。
  • Reimagining Capitalism in a World on Fire, Rebecca Henderson
    著者はハーバード大学ビジネススクール所属の経済学者で長年ビジネスがどう環境問題や社会問題の解決に貢献できるかという観点での研究を続けている。資本主義のあり方の見直しやESG重視のトレンドはこの2, 3年特に勢いを増している印象であるが、その中でもとりわけ昨年のBusiness RoundtableステートメントやBlackRockの公開書簡は話題を呼んだ。日本では冷笑的な人も多いが、確かに人権問題にしても環境・社会問題にしても、搾取するだけ搾取しておいて自分たちの血まみれの手を見てはじめて「国際的ルールを作ろう」と恥ずかしげもなく言い始める面の皮の厚さは相変わらずだと思う一方で、人様に散々迷惑をかけながらもトライアル&エラーを繰り返して人類を前に進める姿勢は大したものだとも思う。こういったリーダーの資質というのは血の染み込んだ土壌からしか生まれないものだろうかと思うし、悔しいけれども人類を良くも悪くも前に進めているのはこういうエネルギーであろう。
  • 『まぐれ』 (ナシーム・ニコラス・タレブ)
    昔読んだ『ブラックスワン』とやたら似ているなと思ったが、どうやら『ブラックスワン』より前に書かれた本なようで、読んでいる途中で気づいた。彼の本は、読んでいるときは、ほうなるほどと思い読むのだが、読み終わると何の話であったか忘れてしまう。ビジネスの場で大真面目に語られる迷信に近いセオリーを馬鹿にして笑い飛ばす、みたいなところは読んでいて痛快なのだけれど。ヘーゲル嫌い、リチャード・ドーキンス好き、など読書の好き嫌いがちょっと面白かった。
  • 死の家の記録』(ドストエフスキー
    ストーリーなどあってないようなものであるにも関わらず面白い。 ドストエフスキーの一冊目や二冊目に読む本ではないと思うが、彼のルポライター的才能と何より実際にシベリア流刑の実体験にもとづいており中々読ませる作品である。
  • 『夜の果てへの旅』(セリーヌ
    長らく読もうと思っていてようやく読めた。独特の語り口、スピード感覚の小説で決して読みやすい小説ではないが、不思議と愛着を抱いてしまう作品。主人公のバルダミュは世界に幻滅しており始終罵言を吐いているが、高尚な絶望から抽象的な虚無に至るのでなく、底辺生活の腐臭と幾度か訪れる別れの切なさの中に生きている実感を見出しているように見え、そこが読者に愛着を抱かせるところのように思う。
  • 灯台へ』(ヴァージニア・ウルフ
    ウルフは『ダロウェイ夫人』をだいぶ前に読んで、正直なところどういった書かれ方をした小説で何が面白いのかというポイントはほとんど忘れてしまっていたのだけれど、今回『灯台へ』を初めて読んでかなり驚いた。筋書きはほとんど無いに等しく、ラムジー家とその周りの人々の日常の出来事が登場人物の内省とともに語られていくだけであるが、作者の鋭敏な感受性と繊細な表現は本書のどこを読んでも漲っておりどの一節も退屈でない。人間が正気を保つことのできるギリギリにまで感受性を高めた時に書かれることのできた文章。
  • 『曾根崎心中・冥途の飛脚・心中天の綱島』(近松門左衛門
    まずはあらすじを理解したいと思い現代語訳のついているものを読んだ。人形浄瑠璃を観に行きたいと思っている。
  • 『五つの証言』 (トマス・マン)
    敬愛する渡辺一夫先生による翻訳。『魔の山』などで有名なノーベル賞作家トマス・マンが亡命先で第二次世界大戦に突入するドイツひいてはヨーロッパ全土に対する警鐘として書いた文章四篇、それを紹介するアンドレ・ジッドの文章一篇の翻訳を『五つの証言』としてまとめたもの。渡辺先生はこれらの文章を「空襲警報の合間に」、仮に自分も含め全国民が本土決戦に巻き込まれることになったとしても必ずや戦後に生きる人間達の糧になると信じて翻訳をした。翻訳の経緯を1945年8月15日を回想しながら書く(仏文の恩師である)辰野先生への手紙もまた渡辺先生の学知と人柄がよく表れている。渡辺一夫先生の本は、『フランス・ユマニスムの成立』や『痴愚神礼賛』の翻訳と解説、ラブレーの『ガルガンチュア物語』、『パンタグリュエル物語』の翻訳・注釈など、学生時代に最も好んで読んだものの一つだったが、恥ずかしながらこの『五つの証言』は知らなかった。
  • マックス・ウェーバー』(野口雅弘)
    中公新書の新刊で目に付いたので脈絡なく買ってみた。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を学生の頃に読んだときにとても面白かったため、一時は『職業としての政治』や『職業としての学問』、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』などを立て続けに読んでいた時期があった。この読書記録からもわかるように、彼の宗教社会学の主著には手が出ていない。
  • パラサイト・イヴ』(瀬名秀明
    私やもう少し上の世代で中高生のころに生物学に関心があった人は読んだことのある人が多いのではないだろうか。私も昔高校の生物の先生に勧められた微かな記憶がある。SFミステリ(ホラー?)小説のカテゴリーに入るのだと思うが、生物学・医学に関連する描写が正確であるため「玄人ウケ」するSF、というような捉えられ方をしていたと思う。ストーリーの基になっているのは、真核生物の細胞の中にあり、エネルギーの産生を司るミトコンドリアという細胞内器官は、元々外から真核細胞に寄生し共生してきたのであるという(おそらくは正しい)学説である。そのミトコンドリアが反旗を翻し、宿主である我々を乗っ取ろうとする・・・というそんな話。
  • Economics for the Common Good, Jean Tirole
    ノーベル経済学賞受賞者のジャン・ティロール氏による一般向けの経済学の本。経済学者の中でも多産かつ幅広い領域で成果を上げている人のようで、本書のトピックも社会政策への提言の部分だけとっても環境問題や企業統治、金融市場、競争政策やイノベーションについて経済学の観点から丁寧に論じており非常に勉強になる。日本語訳も『良き社会のための経済学』という題名で出ている。
  • The Vital Question -  Energy, Evolution, and the Origins of Complex Life, Nick Lane
    これは別途内容を整理してみたいと考えているが、生命科学の本で久しぶりに面白いものに出会った。生命はどう始まり、どう進化したのか。基本的な生化学、化学熱力学、分子生物学の素養がない読者には少し難しいかもしれない。
  • 『大学数学ことはじめ』 東京大学数学部会
    私が駒場にいたころはこういう平凡な学生向けの導入本は存在しなかった気がするぞと思い、手に取ってざざっと目を通して読んでみた。各基本分野の見取り図を思い出すために。
  • 『続 解析入門』(ラング)
    上半期にミクロ経済学の教科書を読んでいた時に多変数関数の微積分は当然出てくるわけだが、せっかくなのできちんと復習しようと思い立ったので。教科書を読んで、章末問題を解いて、というのは楽しいものである。基本的なことが取っつきやすく書かれており、私のような数理系バリバリでない人間でも読める。せっかくgradとかdivとかrotとかを思い出したのでこの勢いで電磁気学の教科書をきちんと読んでみようかと思っている。

雑記 (2020年上半期に読んだ本)

自分がどの本をいつ読んだのかというのは意外とすぐに忘れてしまうので、読書記録がてら、簡単に2020年の上半期に読んだ本について書きたいと思う。そういえば大学生の頃は今は懐かしのmixiにブックレビューを載せていたから大体いつ何を読んだのか記録できていたが、ここ10年近くは残っていない。基本的に私は空いた時間は常に何かを読んでいるタイプの人間だが、同じ分野の本を集中的に読んでいると飽きてしまうので、ジャンルは結構バラバラである。

  • 『日本語で読むということ』(水村美苗
    水村美苗氏の本は以前に『日本語が滅びるとき』をとても面白く読んだが、こちらの『日本語で読むということ』は短いエッセイ集のようなものでだいぶ肩の力が抜けた文章が多い。著者は、漱石の文体をコピーした『続明暗』や『嵐が丘』の日本版を書かんとした『本格小説』などの秀作を世に出した作家として知られているが、10代の頃に米国に渡って以来、大学院まで米国で過ごしYale大学でPaul de Manのもとでフランス文学を研究している。彼女がYale在学中に一時同大学でも教鞭をとっていた加藤周一と交流があったようで本書の中でも何度か登場するが、こういった知識人との思い出、みたいなものは羨ましい。私は加藤周一の最晩年、駒場の900番講堂で平和について息も絶え絶えに語る彼を遠くから眺めることしかできなかったが、生きて話す彼を見たということを、私は老人になってからも人に自慢するだろう。水村氏の生涯を特徴づけている、明治期の文豪らによる優れた日本語への懐旧の情も、本書に書かれている加藤周一との思い出話のような昭和の知識人への憧憬も、昭和末期生まれの私にとってそう切実な問題でなく、アナクロニズムへのアナクロニズムに過ぎないだろう。ただ、昭和末期~平成初期に生まれた世代に共通の記憶であろう、時代意識の耐えがたい希薄さも、この数年の世界情勢を見ると贅沢品になりつつあるように思えて胸騒ぎがするのも事実である。
  • The Plague, Albert Camus
    アルベール・カミュの"La Peste"の英訳(邦訳『ペスト』)。東京で新型コロナウイルスの緊急事態宣言が出るより少し前から『ペスト』がやたら売れていると何かの記事でも読んだが、私も家にある英訳版に手を付けるには丁度よいタイミングと思い読み始めた。アルジェリアの港町Oranにペストが流行し町が封鎖されるという話で、ペストとの不屈の戦いを続ける医師Rieuxを語り手として、容赦なく命を奪うペストとの闘い、封鎖された都市に閉じ込められた人間の連帯と抵抗が淡々とした語り口で綴られる。『異邦人』でこの世界は不条理であると説いたカミュナチスによる欧州の蹂躙、パリの占領を前に連帯と抵抗を一つの答えとして提示しようとした。語り手のRieuxの他にも聖職者のPanelouxや新聞記者のRambert、Oranに偶然訪れていたTarrou下級役人のGrand、Grandの隣人のCottardなどの作中人物らが、各々の状況や信念に基づき災禍をどう受け止めるかが描かれる。
  • The Outsider, Albert Camus
    せっかく『ペスト』を読んだので、勢いで『異邦人』も久しぶりに英訳で再読した。中学生の頃、新潮文庫のマスコットキャラクターのパンダ(Yonda君)のお導きに従って片っ端から海外文学を読んでいたが、短い小説だしとりあえずと軽い気持ちで読んだものの何故これが世界的な名作と言われているのかさっぱりとわからなかった。そういえば大学一年生の頃、仏語の先生に「カミュのL'Etrangerは単純過去時制をほとんど使わないから(文法の勉強が終わっていない)今でも読める」と唆されてフランス語で読み始めたものの半分ほどで放り出したこともあり、個人的に挫折の思い出が多い作品である。やたら(批評家が「零度」だの「白色」だのと言っているように)無色透明な書き方をしていることも手伝って、「不条理の哲学」などと言われてもどうしてそもそも主人公のMeursaultがこうも生に対して無関心であるのか中々正体を掴むことが難しいが、戯曲の『カリギュラ』や『シーシュポスの神話』と合わせて読むと比較的簡単に補助線を引かれるのでそちらも合わせて目を通しておきたい。しかし、以下でも触れるが、『カリギュラ』は今どこかの出版社で日本語訳は出ているのだろうか。今時、いい本でもすぐに絶版になってしまうので、中身のない見栄と言われるのかもしれないが、かつての昭和の文学全集ブームも捨てたものではなかったのではないか。
  • カミュを読む: 評伝と全作品』(三野博司 )
    日本のカミュ研究者が、タイトル通りカミュの生涯とともに全作品をなぞった本。カミュは人気の割に中々いい本が見つからないなと昔から思っていたところ漸く発見した。カミュは私の読書遍歴の序盤から結構好きな作家で、新潮文庫で安く手に入る『幸福な死』、『異邦人』、『ペスト』あたりの小説と、哲学エッセイ『シーシュポスの神話』を読んだところで、収録されている戯曲の『カリギュラ』が読みたくて新潮世界文学のカミュ全集の第二巻を買った。お金が無くて困っていたあの頃に4,500円の本を買うのはだいぶ勇気が要ったが、amazonで調べてみたら古本が20,000円で売られていたので良い買い物だったのだろう。あとはカミュサルトル論争として知られる『革命か反抗か』も新潮文庫で読めるが、論争のもととなった大著『反抗的人間』はやはり上述の全集でしか読めない。正直なところ『反抗的人間』は同時代人でもない限り中々通読できる代物ではないように思うが、その内容はとりあえずおいておいても『革命か反抗か』に収録されている『A.カミュに答える』というサルトルカミュをコテンパンに叩きのめした論文で発揮されるサルトルの論戦巧者ぶりは目を見張るものがあり、サルトルにちょっと憧れて駒場図書館の閉架から『シチュアシオン』を引っ張り出して拾い読みしていた時期もあった。話を標題の本に戻すと、カミュは学者でもなければ、哲学者でもなく、また彼の生きた時代が戦争と政治的混乱のさ中にあったこともあり、エッセイにしても戯曲にしても小説にしても、うまく時代背景や彼自身の人生に関する知識で補ってあげないと意図を汲みとりづらいことがある。そのため、本書のように彼の生涯と一つ一つ作品を丁寧に紐解いてくれる本は大変有難い。
  • 『新エロイーズ』(ジャン・ジャック・ルソー
    書簡体の恋愛小説。ルソーは確か社会人になってすぐの頃に『人間不平等起源論』を読んでなんだかやたら読みづらい文章書く人だなと思って以来避けていたのだが、18世紀の書簡体の小説という意味でラクロの『危険な関係』を読んでおいて『新エロイーズ』を読んでいないのも片手落ちかと思い読んではみたが、やはり文章がくどくて疲れた。欧州の批評家などが書いたエッセイなどでサン・ブルー(主人公の男の名)の名が出てきてもピンとこないのは癪だという気持ちだけで読み通した感はある。『危険な関係』はテレビのサスペンスドラマ的なちょっと下世話な好奇心で読み進められるが、こちらは徹頭徹尾クソ真面目なのでそうはいかない。とはいえ、通読してみて感じられる、この小説にみっちりと書かれているような徳や家族や階級といった宗教・社会規範の中で悶え苦しむ人間と、規範を失い何を選び取ってよいかわからなくなったことでかつての権威あった規範の劣化コピーのような薄っぺらい価値観に結局は縛られるいまどきの人間のコントラストには考えさせられるものがある。
  • 巨匠とマルガリータ』(ミハイル・ブルガーコフ
    奇才や奇書という言葉も疾うに陳腐化しているので使うのも憚れるが、混沌とした物語が溢れ出てくる本書のような小説を読むとそう評したくなる。本筋の舞台は革命後のソ連・モスクワ。キリストを処刑したポンペイウス・ピラトゥスの葛藤の物語を描いたが内容が反革命的であったことから出版が儘ならず原稿を自ら燃やしてしまい精神病院に入院している「巨匠」とその愛人マルガリータが主人公であり、また、この本筋とキリストを処刑したピラトゥスの物語が平行して進んでいく。そもそも冒頭から悪魔が出てくるし、その悪魔が巻き起こす様々な事件、黒魔術のショーやそれによるモスクワの騒乱など荒唐無稽な話が次々と続き、また随所にソビエト社会への風刺が効いた箇所もあり読んでいて飽きない。ブルガーコフは彼の戯曲の愛好者であったスターリンと知己であり、そのお陰もあり劇場の仕事を得ていたものの、スターリンの権力が増し粛清の嵐が吹き荒れるようになってからは彼の作品も当局の検閲を逃れることはできず多くの作品が出版禁止となった。この『巨匠とマルガリータ』も彼が亡くなった年の1940年には書き上げられていたが、作品が世に出るには1966年まで待たねばらなかった。自由に作品を公表することができなかったブルガーコフの生涯は精神的な苦難の多いものであったが、『巨匠とマルガリータ』は陰鬱な小説ではなく、作家の非凡な想像力によって極彩色に染め上げられている。
  • 『日本の文学』(ドナルド・キーン
    ドナルド・キーン氏は有名な日本文学研究者だが、氏の本を読むのは初めてだった。(日本文学をよく知る)西洋人から見た日本文学を論じた本というのは数が少ないだろう。もともと氏の『正岡子規』が読みたくで本を物色していたところこんな本も出していたのかと知って読み始めた。万葉集に始まり、芭蕉近松門左衛門、そして明治から昭和にかけての作家について。

【社会科学系】

  • Capital in the Twinty-First Century, Thomas Piketty
    フランスの経済学者Thomas Pikettyの"Le Capital au XXI Siecle"の英語訳。世界中で話題になり、日本でも『20世紀の資本』という題で邦訳されてよく読まれた本である。どうやら最近映画化されたらしいが、18世紀後半以降のデータをまとめて経済格差を論じるこの本をどう映画化したのかは観ていないので定かではない。本書は所得や資産のデータが不完全ながらもなんとか手に入る18世紀後半以降の欧米を主に扱っているが、このくらいの長期間で眺めてみると、戦後復興という極めて特殊な政治経済事情の延長である現代、そしてその延長の発想から抜け出ていないことによる問題が浮き彫りとなっている。ちなみに19世紀の社会状況を説明するにあたり、バルザックジェーン・オースティンの作品が具体的に参照されているのも面白い。バルザックの作品群は、いわゆるsocial ladderを昇るのだという気負いを私に植え付けた意味で個人的にも思い入れのある作品だが、若いRastignacが弁護士として身を立てるというよりも、社交界への出入りをパリとの「戦い」の手段として選んだ当時の社会状況が、経済的格差という観点で浮き彫りになるところは非常に興味深かった。
  • Capitalism without Capital - The Rise of the Intangible Economy, Johathan Haskel and Stian Westlake
    こちらも『無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体』という題で日本語訳が出ている。「産業構造の高度化」という言葉はよく聞く言葉であるが、では一体それが何を意味するのか。かつての、有形資産(工場や機械など)への投資によって利益を生み出すという経済活動が主であった世界から、研究開発やブランド、ソフトウェア、ノウハウへの投資に軸足が移った現代において、企業の在り方、制度の在り方はどう影響を受け、そしてどう変わるべきであるのかを論じている。ちなみに本を全て読む時間がない(英語のわかる)人はこちらで著者らが1時間程度でエッセンスについてわかりやすく語っているのでおすすめしたい。
    https://www.youtube.com/watch?v=V0mhgsyXn9A
  • ミクロ経済学の力』(神取道宏)
    教科書。学生時代、自分は経済学部でもなかったこともあり、特に目的もなく初学者向けのミクロ経済学の教科書を読んで、ちょっとわかったような全然わからないような、面白いような面白くないような、という気分で放り出して以来、恥ずかしながら真面目に勉強してこなかった。どうやら初学者向けの経済学の本は数式がなさすぎて雰囲気しか分からないらしいということで、中級者向けの本を読んでみようと思い立ったところ、評判のよい学部生向け教科書にたどり着いた。他の教科書をろくに知らないので比較はできないがとても良い本だと思う
  • 『リスク』(上・下巻)(ピーター・バーンスタイン
    ニューヨーク連銀や投資顧問会社の設立など、金融実務の世界で一流の成功者である著者が、統計学・確率論、そして金融理論の発展史を描いたもの。前半はパスカルやベルヌーイ、ガウスなど誰もが知る数学者の話から、マーコビッツポートフォリオ理論やブラックショールズモデルなどの金融理論の生い立ちやその影響を史実として描きだしており非常に面白い。
  • 『IGPI流経営分析のリアル・ノウハウ』
    ツイッターで誰かが紹介していたので読んでみたが、内容は忘れてしまった。それなりに面白かったような気もするのだが、恥ずかしながら昔から私はこの手のビジネス書を読んでも内容があまり頭に入らない。そういえば本題と関係ないのだが、この本もそうであるように、実務家と学者・評論家、ジャーナリストと学者・評論家とような敵対図式をチラチラと見せるような著者は多い。双方共に、おそらく他方に傷つけられたり苛立たされたりすることもあるのだろうが、対立に無用なエネルギーを使うことには感心しない。せっかく賢いのであれば、勉強を厭わず、人間の相互理解可能性の方にチップを置き続けて欲しいと思う。

【自然科学系】  

  • 『自己組織化と進化の論理』(スチュアート・カウフマン)
    学生として生命科学には足を突っ込んだことがあることもあり、いまでも関連分野の書籍にはたまに目を通したりするが、とは言っても教科書や論文の類でなく一般向けに書かれた本ばかりである。先日、教養学部の金子先生が『普遍生物学』という本を出され、その前の『生命とは何か』と合わせて読もうと買い込んだのだが、新しい本を読む前にそういえば十年も前に『自己組織化と進化の論理』を買ったまま積んでいたことを思い出し、まずはこちらを読もうということで読み始めて漸く読み終わった。自分の関心についてはシュレーディンガーの『生命とは何か』あたりから始めて整理してみたい気もするがまたの機会にする。
  • 『ウイルスプラネット』カール・ジンマー
    人気のサイエンスライターが書いたウイルスに関する一般向けの本。分量も少なく生物学の教育を受けていなくても読めるように書いてあるので、コロナ蔓延で興味を持った方向けによいのでは。元々この本を買ったのは『大腸菌』という同著者の本が分子生物学のよくまとまった一般書で面白かったため。

『日はまた昇る』

1

外国での思い出と言われて思い浮かぶものは人それぞれなのだろうか。私の場合、頭に浮かぶのが酒場の記憶であることが多い。酔っている時、周りの世界と自分が薄いガラスで隔てられていて、自分の見ている光景や聴いている音が他人事のように感じられることがある。それほどしばしば訪れない外国の街での酩酊の記憶は特に、その薄いガラスの向こうで鮮度を失わずに保存されている。『日はまた昇る』の舞台は冒頭の四分の一くらいはパリ、残り大半はスペインのフランス国境にほど近い街パンプローナだが、主な登場人物はアメリカ人とイギリス人であるため、そこでは彼らは外国人であり、そして大抵の場面で酒を飲んでいる。『日はまた昇る』はヘミングウェイ最初の長編小説で、彼が1920年代にカナダのトロント・スター紙の特派員としてパリで過ごした時期に書かれているものだが、作品の舞台設定や作中人物の出自、風貌、性格などには、彼自身がモデルになっている主人公のジェイク・バーンズをはじめとし、実在のモデルが存在する。ヘミングウェイは「自分のよく知っているものを書くべきだ」というようなことを色々なところで言っているが、この小説後半で物語の中心を為すパンプローナの闘牛も彼が生涯通して愛したものの一つで、『日はまた昇る』の直接的なモチーフとなったのは彼の三度目のパンプローナ滞在である*1。この小説が書かれた1920年代は「狂騒の20年代 (Roaring Twenties)」と呼ばれ、米国では第一次世界大戦の戦時経済からの急速な復興と大量消費社会の幕開けを背景に大衆文化が花開いていた。同時に大戦を契機に米国とヨーロッパの経済的・文化的な紐帯がより強固になり、また欧州各国の通貨に対して米ドルが強くなったことも背景に、特にパリには多数の米国人が渡航・滞在した。『日はまた昇る』はLost Generationという言葉と共に紹介されることも多いが、アメリカ人女性著作家ガートルード ・スタインが、ヘミングウェイらのような第一次世界大戦の経験*2を経て既存の価値観に幻滅し、享楽に溺れた世代の若者をそう表現したことがもととなっている。ヘミングウェイがガートルート・スタインのもとを訪れた頃には既に作家そして美術評論家・蒐集家としての名声を博していた彼女のサロンには当代随一の芸術家が集っていた。ヘミングウェイが晩年に着手し没後に出版されたパリ時代の回想録である『移動祝祭日』*3 にも当時の様子が描かれているが、この頃のパリにいたのはピカソマチスのような画家ら、T・S エリオット、ジャン・コクトーヘミングウェイフィッツジェラルド、ジェームズ・ジョイスのような詩人・作家ら、実に錚錚たる顔ぶれである。ガートルード・スタインの著作は今日の日本ではよく知られているとは言い難いが、彼女がその生涯で交流した天才達との思い出は、『アリス・B・トクラスの思い出』という自伝*4 にも、第二次世界大戦後も含めたより長期間を対象として詳しく綴られている。20年代のパリに関しては2011年に公開されたウッディ・アレンの『ミッドナイトインパリ』という有名な映画があるが、この映画はパリに憧れるアメリカ人で小説家志望のシナリオライターが彼の婚約者とパリに旅行に訪れた際に、真夜中に散歩をしていたところ1920年代のパリにタイムスリップし、ヘミングウェイをはじめとする芸術家らと交流するというおとぎ話だ。当時パリに実在した人物らが再現されており(配役も実際の人物に似た俳優達が選ばれている)、この映画を観たときに私は「黄金時代へのノスタルジー*5」というテーマくらい、創作の才のない好事家の妄想の種として残しておいてくれればよいものをと思ったものだが、憧れの天才達がひしめくパリのこの素晴らしい時代に自分も生きていたら、そしてその一員として創作活動ができたら…という空想を炸裂させた映画で、文学・芸術を愛する人にとってはたまらない趣味映画だろう。

2

日はまた昇る』では戦争は描かれない。ヘミングウェイ第一次世界大戦や、その後のスペイン独立戦争をはじめとして、戦争の直接的な描写を軸とした長編、短編を複数書いているが、この作品において描かれるのは自堕落に酒を飲んで過ごす男女であり、その狂騒はパンプローナの夏の祝祭、Fiesta de San Ferminで頂点に達する。描かれる人物達は戦争に傷つけられた世代と言えるが、とりわけ主人公のジェイクにはその傷は戦争での負傷による性的不能という形で刻印されている。ジェイクは彼の負傷を「滑稽」("what happened to me is supposed to be funny") だと自ら語るが、その滑稽な負傷は、もう一人の中心的な登場人物ブレット・アシュレーによって滑稽さ以上の意味を持たざるを得ない。ブレットは34歳のイギリス人で、第一次大戦には看護師として参加し、戦争中に赤痢で恋人を失った。貴族のアシュレー家に嫁いだため、作品中でもLady Brett Ashleyと呼ばれることもあるが、離婚調停中であり、離婚が成立すればスコットランド人のマイク・キャンベルと結婚することになっている。ジェイクとは戦争中に出会い、その後パリのダンスホールで再会するが、夜遊びの相手を放り出してジェイクの泊まるホテルに明け方押しかけるなど、しばしば彼に対する依存症的な愛を示す。この小説にあえて乱暴なあらすじをつけるとすれば、ブレットという奔放な女を巡る男達のいざこざ、とでも言えるが、たとえばジェイクの友人であるユダヤアメリカ人のロバート・コーンは、パリでブレットに一目惚れし、のちにブレットが彼とスペインのサン・セバスチャンに旅行に出かけるという気まぐれを起こしたために旅行の後もブレットに執着し、嫉妬心から彼女の周りの男と暴力沙汰を起こす。小説の半ばに、ブレットはジェイク、マイク、コーン、そして友人の作家ビル・ゴードンと共に祝祭のパンプローナに闘牛を見物しに行き、一週間続く祭りの間にこの英米人の一行は闘牛士ペドロ・ロメロと知り合う。この19歳の闘牛士に惹かれたブレットは彼と関係を持ち、祝祭期間が終わると同時に駆け落ちするが、結局「うぶな少年をダメにしてしまう悪女になりたくなかった」とペドロと早々に別れ、旅先のマドリードにジェイクを呼び出し、自分は「とてもみじめ」だとジェイクにこぼす。小説はこの二人が気を取り直して街の見物に向かう車の後部座席に並んで座る二人の短い会話で締めくくられる。

3

日はまた昇る』の登場人物はみな人生の目的を持っているようには見えず、物見遊山に出かけたパンプローナで酒に酔い、恋愛のいざこざに興じるばかりである。この小説はジェイクの一人称の視点で書かれているため、語り手は全能でない。全能でないどころか、語り手であるジェイク自身の心の中さえも克明には描かれない。フランスやスペインではあくまで外国人であるジェイクにとって、パリのダンスホールやカフェも、パンプローナの祝祭も彼のものではないし、男性機能を失った彼は、「失われた世代」の仲間達が溺れた享楽にも、スペインの太陽のもとで燃え上がるブレットの情熱にも触れることができず、狂騒の真っ只中なかにありながらこの世界を他人事のように眺めざるを得ない。そして一方で、情熱の女であり、美しく自立した女であるブレットは、その情熱と気まぐれの向くままに男達を渡り歩いているが、それでいて心から信頼しているのは肉体的に結ばれることのないジェイクだけのように見える。彼女は、ジェイクとは結ばれ得ないという哀しみから手当たり次第男と関係を持つのか、あるいは誰と寝ようともついてまわる空虚さから逃れるために傷ついた傍観者であるジェイクに救いを求めているのか、それは必ずしも明白でない。ヘミングウェイは小説の冒頭にガードルート・スタインの"You are all a lost generation"という言葉とともに、旧約聖書の伝道之書(コヘレトの言葉)の一部*6を掲げているが、「世は去り、世は来たる」「日はまた昇り、そして没する」と続くこの一節は、戦後の虚無感の中で無軌道に生きる作中人物達と、悟ったようにそれを見つめるジェイクの様子に通ずるものがある。ヘミングウェイが戦後のexpatriate達の中に見たものは、極端に切り詰められた状況説明と心理描写、短く淡々とした台詞の連続、そして時折素晴らしく描き出される美しい自然といった、ヘミングウェイ独特の文体によって、見事にあらわれている。
祝祭に向けて盛り上がっていく登場人物の騒ぎは、その終わりとともに凪ぎ、最後にはブレットとジェイクの静かな会話だけが残る。この物語は"We could have had such a damned good time together." ―"Yes," "Isn't it pretty to think so?"(「あたしとあなたとだったら、とても楽しくやっていけるはずなのに」―「そうだな」「そう考えるだけでも楽しいじゃないか」)というバルセロナでの二人の会話で終わるが、ブレットがジェイクに確認するかのように語りかけた、あり得たかもしれない時間と、それへのジェイクの優しい肯定で締めくくられるこの小説の中に、傍観者ジェイクが"The sun also ariseth, and the sun also goeth down"(「日はまた昇り、そして没する」)という悟りに至る物語を見るのか、"Vanity of vanities. All is vanity."(「空の空、いっさいは空である」)*7から救われようとするブレットの物語を見るのか、あるいはガードルート・スタインが無責任に名付けたある世代の再生の物語を見出すのか、それは自由であろうし、ヘミングウェイはそのための余白を十分に残している。

目を通した本の紹介
Ernest Hemingwey The Sun Also Rises
アーネスト・ヘミングウェイ日はまた昇る』(新潮文庫
アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(新潮文庫
ガートルート・スタイン『アリス・B・トクラスの自伝』
旧約聖書 「伝道之書」 / Holy Bible "Ecclesiastes"

*1:パンプローナにはPaseo Hemingway(「ヘミングウェイ通り」)と名付けられた通りもある。

*2:ヘミングウェイ赤十字の一員として第一次世界大戦に参加し、北イタリアで負傷している。

*3:「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日なのだから」、という有名な一節で知られる回想録。この時代のパリでの生活や交友関係、そして最初の妻のハドリーとの想い出の期間を綴ったもの。自分の不倫が原因で離婚しておいてノスタルジーに浸るのも身勝手な気もするが、ヘミングウェイは晩年この本を書くにあたって30年前に別れた妻に当時のことを思い出すために電話をしたという。

*4:ガートルード・スタインは同性愛者でアリス・B・トクラスというのは彼女のパートナーの名前である。この自伝自体は冗漫なゴシップ集のような本で読んでいてやや退屈。

*5:ちなみにgolden age thinking(黄金時代へのノスタルジー)というこのテーマはさらに手が込んだ構造になっている。タイムスリップした1920年に唯一出てくる架空の人物は、ココ・シャネルに憧れて服飾をパリに学びに来たというアドリアナだが、彼女はジョルジュ・ブラックやモディニアーニ、ピカソらの芸術家の愛人である(あった)という設定であり、主人公のギルとも恋に落ちる。彼女は「ベルエポック(「美しい時代」。19世紀末から第一次世界大戦勃発までのフランスで文化が花開いた時期。芸術で言えばいわゆる印象派が活躍したのもこの時代)が黄金時代であり、自分もその時代に生まれたかった」というのが口癖だったが、彼女はギルと一緒に1920年代のパリを散歩をしていると1890年代にタイムスリップする。憧れの「ベルエポック」にタイムスリップし、そこでドガゴーギャンロートレックにも邂逅したアドリアナは「私はベルエポックに残る」とギルに告げ、二人は別れる。ベルエポックを代表する大家であるドガゴーギャンが「ルネッサンス期と比べると今の時代には想像力がない」と嘆くのを聞いたギルは"golden age thinking"が何処にも導かないということを悟り、アドリアナと共に1890年に残るのではなく、現代に戻ることを選択する。

*6:One generation passeth away, and another generation cometh; But the earth abideth forever...The sun also ariseth, and the sun goeth down, and hasteth to the place where he arose...The wind goeth toward the south, and turnerh about unto the north; it whirleth about continually, and the wind returneth again according to his circuits. ...All the rivers run into the sea; yet the sea is not full; unto the place from whence the rivers come, thither they return again

*7:旧約聖書 伝道之書 1-2。『日はまた昇る』の冒頭にある引用はこの直後から。