『日はまた昇る』

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外国での思い出と言われて思い浮かぶものは人それぞれなのだろうか。私の場合、頭に浮かぶのが酒場の記憶であることが多い。酔っている時、周りの世界と自分が薄いガラスで隔てられていて、自分の見ている光景や聴いている音が他人事のように感じられることがある。それほどしばしば訪れない外国の街での酩酊の記憶は特に、その薄いガラスの向こうで鮮度を失わずに保存されている。『日はまた昇る』の舞台は冒頭の四分の一くらいはパリ、残り大半はスペインのフランス国境にほど近い街パンプローナだが、主な登場人物はアメリカ人とイギリス人であるため、そこでは彼らは外国人であり、そして大抵の場面で酒を飲んでいる。『日はまた昇る』はヘミングウェイ最初の長編小説で、彼が1920年代にカナダのトロント・スター紙の特派員としてパリで過ごした時期に書かれているものだが、作品の舞台設定や作中人物の出自、風貌、性格などには、彼自身がモデルになっている主人公のジェイク・バーンズをはじめとし、実在のモデルが存在する。ヘミングウェイは「自分のよく知っているものを書くべきだ」というようなことを色々なところで言っているが、この小説後半で物語の中心を為すパンプローナの闘牛も彼が生涯通して愛したものの一つで、『日はまた昇る』の直接的なモチーフとなったのは彼の三度目のパンプローナ滞在である*1。この小説が書かれた1920年代は「狂騒の20年代 (Roaring Twenties)」と呼ばれ、米国では第一次世界大戦の戦時経済からの急速な復興と大量消費社会の幕開けを背景に大衆文化が花開いていた。同時に大戦を契機に米国とヨーロッパの経済的・文化的な紐帯がより強固になり、また欧州各国の通貨に対して米ドルが強くなったことも背景に、特にパリには多数の米国人が渡航・滞在した。『日はまた昇る』はLost Generationという言葉と共に紹介されることも多いが、アメリカ人女性著作家ガートルード ・スタインが、ヘミングウェイらのような第一次世界大戦の経験*2を経て既存の価値観に幻滅し、享楽に溺れた世代の若者をそう表現したことがもととなっている。ヘミングウェイがガートルート・スタインのもとを訪れた頃には既に作家そして美術評論家・蒐集家としての名声を博していた彼女のサロンには当代随一の芸術家が集っていた。ヘミングウェイが晩年に着手し没後に出版されたパリ時代の回想録である『移動祝祭日』*3 にも当時の様子が描かれているが、この頃のパリにいたのはピカソマチスのような画家ら、T・S エリオット、ジャン・コクトーヘミングウェイフィッツジェラルド、ジェームズ・ジョイスのような詩人・作家ら、実に錚錚たる顔ぶれである。ガートルード・スタインの著作は今日の日本ではよく知られているとは言い難いが、彼女がその生涯で交流した天才達との思い出は、『アリス・B・トクラスの思い出』という自伝*4 にも、第二次世界大戦後も含めたより長期間を対象として詳しく綴られている。20年代のパリに関しては2011年に公開されたウッディ・アレンの『ミッドナイトインパリ』という有名な映画があるが、この映画はパリに憧れるアメリカ人で小説家志望のシナリオライターが彼の婚約者とパリに旅行に訪れた際に、真夜中に散歩をしていたところ1920年代のパリにタイムスリップし、ヘミングウェイをはじめとする芸術家らと交流するというおとぎ話だ。当時パリに実在した人物らが再現されており(配役も実際の人物に似た俳優達が選ばれている)、この映画を観たときに私は「黄金時代へのノスタルジー*5」というテーマくらい、創作の才のない好事家の妄想の種として残しておいてくれればよいものをと思ったものだが、憧れの天才達がひしめくパリのこの素晴らしい時代に自分も生きていたら、そしてその一員として創作活動ができたら…という空想を炸裂させた映画で、文学・芸術を愛する人にとってはたまらない趣味映画だろう。

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日はまた昇る』では戦争は描かれない。ヘミングウェイ第一次世界大戦や、その後のスペイン独立戦争をはじめとして、戦争の直接的な描写を軸とした長編、短編を複数書いているが、この作品において描かれるのは自堕落に酒を飲んで過ごす男女であり、その狂騒はパンプローナの夏の祝祭、Fiesta de San Ferminで頂点に達する。描かれる人物達は戦争に傷つけられた世代と言えるが、とりわけ主人公のジェイクにはその傷は戦争での負傷による性的不能という形で刻印されている。ジェイクは彼の負傷を「滑稽」("what happened to me is supposed to be funny") だと自ら語るが、その滑稽な負傷は、もう一人の中心的な登場人物ブレット・アシュレーによって滑稽さ以上の意味を持たざるを得ない。ブレットは34歳のイギリス人で、第一次大戦には看護師として参加し、戦争中に赤痢で恋人を失った。貴族のアシュレー家に嫁いだため、作品中でもLady Brett Ashleyと呼ばれることもあるが、離婚調停中であり、離婚が成立すればスコットランド人のマイク・キャンベルと結婚することになっている。ジェイクとは戦争中に出会い、その後パリのダンスホールで再会するが、夜遊びの相手を放り出してジェイクの泊まるホテルに明け方押しかけるなど、しばしば彼に対する依存症的な愛を示す。この小説にあえて乱暴なあらすじをつけるとすれば、ブレットという奔放な女を巡る男達のいざこざ、とでも言えるが、たとえばジェイクの友人であるユダヤアメリカ人のロバート・コーンは、パリでブレットに一目惚れし、のちにブレットが彼とスペインのサン・セバスチャンに旅行に出かけるという気まぐれを起こしたために旅行の後もブレットに執着し、嫉妬心から彼女の周りの男と暴力沙汰を起こす。小説の半ばに、ブレットはジェイク、マイク、コーン、そして友人の作家ビル・ゴードンと共に祝祭のパンプローナに闘牛を見物しに行き、一週間続く祭りの間にこの英米人の一行は闘牛士ペドロ・ロメロと知り合う。この19歳の闘牛士に惹かれたブレットは彼と関係を持ち、祝祭期間が終わると同時に駆け落ちするが、結局「うぶな少年をダメにしてしまう悪女になりたくなかった」とペドロと早々に別れ、旅先のマドリードにジェイクを呼び出し、自分は「とてもみじめ」だとジェイクにこぼす。小説はこの二人が気を取り直して街の見物に向かう車の後部座席に並んで座る二人の短い会話で締めくくられる。

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日はまた昇る』の登場人物はみな人生の目的を持っているようには見えず、物見遊山に出かけたパンプローナで酒に酔い、恋愛のいざこざに興じるばかりである。この小説はジェイクの一人称の視点で書かれているため、語り手は全能でない。全能でないどころか、語り手であるジェイク自身の心の中さえも克明には描かれない。フランスやスペインではあくまで外国人であるジェイクにとって、パリのダンスホールやカフェも、パンプローナの祝祭も彼のものではないし、男性機能を失った彼は、「失われた世代」の仲間達が溺れた享楽にも、スペインの太陽のもとで燃え上がるブレットの情熱にも触れることができず、狂騒の真っ只中なかにありながらこの世界を他人事のように眺めざるを得ない。そして一方で、情熱の女であり、美しく自立した女であるブレットは、その情熱と気まぐれの向くままに男達を渡り歩いているが、それでいて心から信頼しているのは肉体的に結ばれることのないジェイクだけのように見える。彼女は、ジェイクとは結ばれ得ないという哀しみから手当たり次第男と関係を持つのか、あるいは誰と寝ようともついてまわる空虚さから逃れるために傷ついた傍観者であるジェイクに救いを求めているのか、それは必ずしも明白でない。ヘミングウェイは小説の冒頭にガードルート・スタインの"You are all a lost generation"という言葉とともに、旧約聖書の伝道之書(コヘレトの言葉)の一部*6を掲げているが、「世は去り、世は来たる」「日はまた昇り、そして没する」と続くこの一節は、戦後の虚無感の中で無軌道に生きる作中人物達と、悟ったようにそれを見つめるジェイクの様子に通ずるものがある。ヘミングウェイが戦後のexpatriate達の中に見たものは、極端に切り詰められた状況説明と心理描写、短く淡々とした台詞の連続、そして時折素晴らしく描き出される美しい自然といった、ヘミングウェイ独特の文体によって、見事にあらわれている。
祝祭に向けて盛り上がっていく登場人物の騒ぎは、その終わりとともに凪ぎ、最後にはブレットとジェイクの静かな会話だけが残る。この物語は"We could have had such a damned good time together." ―"Yes," "Isn't it pretty to think so?"(「あたしとあなたとだったら、とても楽しくやっていけるはずなのに」―「そうだな」「そう考えるだけでも楽しいじゃないか」)というバルセロナでの二人の会話で終わるが、ブレットがジェイクに確認するかのように語りかけた、あり得たかもしれない時間と、それへのジェイクの優しい肯定で締めくくられるこの小説の中に、傍観者ジェイクが"The sun also ariseth, and the sun also goeth down"(「日はまた昇り、そして没する」)という悟りに至る物語を見るのか、"Vanity of vanities. All is vanity."(「空の空、いっさいは空である」)*7から救われようとするブレットの物語を見るのか、あるいはガードルート・スタインが無責任に名付けたある世代の再生の物語を見出すのか、それは自由であろうし、ヘミングウェイはそのための余白を十分に残している。

目を通した本の紹介
Ernest Hemingwey The Sun Also Rises
アーネスト・ヘミングウェイ日はまた昇る』(新潮文庫
アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(新潮文庫
ガートルート・スタイン『アリス・B・トクラスの自伝』
旧約聖書 「伝道之書」 / Holy Bible "Ecclesiastes"

*1:パンプローナにはPaseo Hemingway(「ヘミングウェイ通り」)と名付けられた通りもある。

*2:ヘミングウェイ赤十字の一員として第一次世界大戦に参加し、北イタリアで負傷している。

*3:「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日なのだから」、という有名な一節で知られる回想録。この時代のパリでの生活や交友関係、そして最初の妻のハドリーとの想い出の期間を綴ったもの。自分の不倫が原因で離婚しておいてノスタルジーに浸るのも身勝手な気もするが、ヘミングウェイは晩年この本を書くにあたって30年前に別れた妻に当時のことを思い出すために電話をしたという。

*4:ガートルード・スタインは同性愛者でアリス・B・トクラスというのは彼女のパートナーの名前である。この自伝自体は冗漫なゴシップ集のような本で読んでいてやや退屈。

*5:ちなみにgolden age thinking(黄金時代へのノスタルジー)というこのテーマはさらに手が込んだ構造になっている。タイムスリップした1920年に唯一出てくる架空の人物は、ココ・シャネルに憧れて服飾をパリに学びに来たというアドリアナだが、彼女はジョルジュ・ブラックやモディニアーニ、ピカソらの芸術家の愛人である(あった)という設定であり、主人公のギルとも恋に落ちる。彼女は「ベルエポック(「美しい時代」。19世紀末から第一次世界大戦勃発までのフランスで文化が花開いた時期。芸術で言えばいわゆる印象派が活躍したのもこの時代)が黄金時代であり、自分もその時代に生まれたかった」というのが口癖だったが、彼女はギルと一緒に1920年代のパリを散歩をしていると1890年代にタイムスリップする。憧れの「ベルエポック」にタイムスリップし、そこでドガゴーギャンロートレックにも邂逅したアドリアナは「私はベルエポックに残る」とギルに告げ、二人は別れる。ベルエポックを代表する大家であるドガゴーギャンが「ルネッサンス期と比べると今の時代には想像力がない」と嘆くのを聞いたギルは"golden age thinking"が何処にも導かないということを悟り、アドリアナと共に1890年に残るのではなく、現代に戻ることを選択する。

*6:One generation passeth away, and another generation cometh; But the earth abideth forever...The sun also ariseth, and the sun goeth down, and hasteth to the place where he arose...The wind goeth toward the south, and turnerh about unto the north; it whirleth about continually, and the wind returneth again according to his circuits. ...All the rivers run into the sea; yet the sea is not full; unto the place from whence the rivers come, thither they return again

*7:旧約聖書 伝道之書 1-2。『日はまた昇る』の冒頭にある引用はこの直後から。