雪国(川端康成)

雪国を初めて読んだのは恐らく中学の三年生かあるいは高校の一年生の頃であって、当時はまだ知らない温泉町の情緒や若い女の美しさに目を引かれていたに過ぎず、話の筋は理解していたものの、その情念を解するだけの素地も、またこの物語がメリハリの効いた構成で作られているということに目を向ける余裕もなかったように思う。名高い川端の自然描写で描かれた雪国の清冽なイメージは、厚く積もる雪が周囲の音を吸収するように、妻子ある男が温泉町の芸者と関係するという、人の心が軋む音なしには表現し得ないはずの人間関係を異様な静けさの中に包み隠しており、一見するの単に平坦で美しいだけの小説のように見えるのは、彼の筆の芸に負うところも大きいように思う。

主人公である島村は東京で無為徒食の生活を送る既婚者で子供もいるようだが、「無為徒食」と書かれるだけで誰の金でどう暮らしているかは詳かにされない。その島村と、温泉町で芸者として働く駒子の物語だ。筋だけ書き下してしまえば、妻子ある金持ちの男が温泉町で若い芸者と寝た話である。

作中の時間進行はかならずしも単純でなく、回想を挟み前後する。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」で始まる有名なあの冒頭は、島村が二度目に温泉町に向かう汽車内の場面であって、汽車の中で男を看病する若い女(後に島村はそれを行男を看病する葉子と知る)の印象に島村が心を奪われる場面の後、汽車は温泉町に到着し島村は駒子と再会する。再開のシーンから程なく島村の回想、この地での最初の逗留の模様(季節は初夏)が始まる。島村と駒子との出会いから二人が関係を持つまでは、男が初対面の女を口説く遣り方として比較的月並みなものではあり、彼が村に着いた日に呼んだ芸者が駒子なのだが、翌日島村の部屋に寄った駒子に彼は他の芸者の世話を頼む。侮辱されたと気色ばむ駒子に、君は友達だから口説かない、などと恥ずかしげもなく言っておきながら、その日の夜に酒の入った彼女と寝るのである。

二度目の逗留では、駒子の自分語りや、島村が呼んだ按摩の老婆の話を通じて、駒子の半生、性格、そして許嫁(と周囲が噂する男、行男。冒頭葉子が看病していた男。)の存在などが概ね全てテーブルに乗せられ、悲痛なほど真面目な、「不真面目」で余裕のある島村からすれば「徒労」と言えるような、生活を送っている駒子という女の性質が明らかにされる。二人の関係で言えば、一度目の逗留では、夜更けの暗がりの中で肉感的に描かれた関係が、陽の光の下で明確な輪郭をもって描かれる。駒子が島村に三味線を披露してみせるシーンなどがうまく使われているが、これによってそれまでのように声を落とした闇夜での会話でなく、声をあげた唄いと三味線を通じて、駒子は島村を自分の男として意識しながら自らの内面を島村に見せ始める。それ以降、駒子は島村の部屋に泊まることがあっても、敢えて夜明け前に帰らなくなった。

暗がりでの関係でなく、翌朝を共有する関係になることで愈々もって二人は白日の下で二人の関係を直視せざるを得ななるが、それは取りも直さず、「妻子ある金持ちの男が温泉町で若い芸者と寝る話」であることを互いに意識せざるを得なくなることである。全てを陽の光の下に晒してしまえば、残るのは「どうしてやることもできない」二人の関係だけになるが、それが明らかになったときに、駒子は許嫁の死に目に立ち会うことよりも、東京に帰る島村を駅で見送ることを選択し、不真面目で安易な島村と、どこまでも真剣に生きる駒子の絶望的なコントラストを暗示して、島村の二度目の逗留は終わり、物語は終結、三度目の逗留、に向かう。

三度目の逗留は長い。同じ物語を共に歩んでいた二人の違いを白日の下に晒してしまった二度目の逗留を経た以上、三度目の逗留は、それでも自分の島村に対する真剣さを崩さない駒子と、どこか他人事のように駒子を眺め始める島村の、「見る人と見られる人」の関係に舞台設定が変わる。役者であったはずの島村は観客席に後ずさりし、先が見えないことを知りながら二人の物語から引かない駒子は、舞台の袋小路に追い込まれ、身動きがとれなくなり、そして島村の眼にはより一層美しく映る。三度目の逗留における島村と駒子の会話はこの小説の白眉であって、一度目の二人の鞘当てや、二度目の、終結を暗示しながらも仲睦まじさのある会話とは異なる、駒子の切迫した気持ちと、既に心が遠のき「見る人」の役割を演じ始めている島村の対比が見事に表現されている。そして、これまでの駒子のいじらしい程に真剣な20年の人生を島村が愈々受け止めきれなくなり、行き詰まりの雰囲気が小説に立ち込めてきたところで、夜、葉子のいる繭倉に火がつき、火事騒ぎが起き、美しい天の川だけを夜空に残して小説は終わる。尚、これまで葉子は冒頭に「悲しいほど美しい声」を持つ女として舞台背景にちらと出てくるに過ぎなかったが三度目の逗留では島村と二、三暗示的な会話を交わし、まるで二人の物語の明度を示す徴のように、冒頭は美しく鳴き、物語が終わらざるをなくなる頃に半ば狂女のような形で登場する。

さらりと読み通すと、この小説は島村と駒子の掛け合いが続き、唐突にクライマックスを迎えるように見えるのだが、実は島村の三度に渡る逗留の中で、徐々に二人の関係が冬空の中で引かれる弓の弦のように張りつめてゆき、ギリギリまで引き絞られた矢が弓手を離れた時に、済んだ夜空にかかる天の川が残心として残るように書かれている。その物語運びの妙が、この長さの小説(日本では中編、海外では場合によっては短編と分類されるだろう)において傑出している。この小説において、葉子は記号のような役割を果たしているが、恐らくトルストイのような大長編を書く作家ならば雪国の最後のシーンの次に例えば「葉子の幼少の想い出」のような章を書き始め、更に射程の広い物語にしていくこともできるだろう。長編小説に物語の先行きを暗示したり、物語の状況を象徴するような記号や、物語をドライブする目的だけに登場する人物は必ずしも必要がない。長編小説には全ての人間を立体感のある人間として描くだけの時間的余裕があるが、短・中編の小説において、作中人物を全て立体感を持って描ききることは難しい。
あまりに美しい自然の描写は言うまでもないが、駒子と島村の関係が美しくあるギリギリまでで小説を終わらせたこと、また二人の関係の緊張感に応じて、島村を通じて見せる作者の視点が徐々に変化すること、そして、短・中編小説において現れがちな不自然な記号的人間(すなわち小説の骨格を支えるだけ、あるいは小説を装飾するだけのために登場する作中人物)を不自然なく、それでいて効果的に登場させ、退出させた芸にも目を向けてみると面白いかもしれない。

広告を非表示にする